あをむし 「歌壇」H27年11月号 十二首
どちら様も青き本心言へばよし原発のこと沖縄の事
仏壇にきそふがごとく線香をたける孫子の日本である
甘藍の葉に見つけたるあをむしにをさな驚きやがて喜ぶ
強引に引き摺り込まれし庭の壕あの夜の母は鬼のごとしも
軍帽をかぶりし写真の色あせしが七十二年間思ひ褪せざり
敗戦後七十年を機に思想統制も解けたるやひとり話し始める
叱られて泣き噦くりつつ幼児はいい子だもんと言ふべきは言ふ
日米軍一体化の本音ぼろぼろ平和憲法九条崩しの法案と識る
兎も角も最強の武器の泣くことで窮地脱出に挑むをさな児
殺戮は人間用語 惨たらしき殺しなれども獣にもちひず
猛暑日の続く八月菜園に末枯れて未熟の胡瓜ころがる
ひぐらしの声も静まる八月尽大戦特集・特番終息る
「歌壇」H27年11月号より転載
こつちだ 「現代短歌新聞」 H27年11月号
秋霖に濡れつつ叫ぶ「検挙せよ!憲法違反の現行犯を」
線香の燃えの速さを言ひながら秋の墓前に妻と分け合ふ
疳癪のごとく泣きゐるをさな児を豊かなる胸に強く抱きしむ
其方じやあねえ此方だと引き寄せし母の必死のあの手とこの手
幼児の泣きて欲しがりし腕時計 時の間に厭きほつたらかせり
階段を這ひ上がり来て「下へ行かふ!」と幼子それ以上は言はず
「現代短歌新聞」H27年11月号より転載
ほうほろと 「短歌研究」 H27年7月号
洗脳の手段と化せし宗教のひとつ身命を火種となせり
新聞紙丸め武器とし戦へるスマホゲームに育ちし孫ら
かうめうに吾の造りし落としあな悪漢おちたり吾も落ちたり
こみあげるものを堪へて幼蒙はこゑより先に顔の面に泣く
外出の折には妻に服装を正してもらふ覚えておいてもらふ
彫り深く皺のさはなるてのひらをしみじみと見て指に包みぬ
吹き出しのやうなこの世に自衛とふ武力行使の準備ととのふ
人類の歴史にいまも繰り返す独裁は毒裁にして国をほろぼす
少しづつ事故あるごとに知らされて米軍基地も原発もジャマ
武力もてまつりごとなす過ちを遠き外国のことと観て来し
灌仏会甘茶ささげる列にゐて戦ふ理由を考えてゐる
ぬすつとが不知切るごとく皓皓と春陽にまぶしき原子炉ドーム
えごま油に効果ありとのテレビ観て痴呆予備軍買ひ占めに来し
若者はフリーランサーと自らを誇らしげにてややにあやふし
でんぼつことなどと母の真似をしてつくづく妻と長く来たりぬ
缶ビール一本あれば晩酌に充分足らへり時には余す
隠れ住む吾にあらねど認識され店の自動の扉が開く
子子孫孫に償ひきれざる過誤が波のごとくに足をぬらせり
銃を持ち近づきて来るカホナシが懐柔せむとややに微笑む
ほうほろと山鳩の鳴く 兵站を好み請け負ふ国になりしか
「短歌研究」H27年7月号より転載
「現代万葉集」二〇一〇「家族」
誕生会に灯すあかりのひともとの孫の一年われの一年
吸ふ事を覚えし嬰児ラッパ吹くまでの日数のしばし待たるる
餅を背負ひ伝ひ歩きするみどり児の一歩の二歩の三歩の喜び
一歩のよろこび 「短歌現代」十月号
新年はわが家にも来て旦なれば折り目あやしき日の丸かかぐ
うかららは十余り四人集ひたり今年の年賀ことのほか嬉し
派遣切りの不幸に遇ひて気づきしや人の情けの温かさ言ふ
炊き出しの豚汁両の手に受けて畏み湯気を顔にあてたり
誕生会に灯す明かりのひともとの孫の一年われの一年
覚へたる肘掛け椅子の上り下り教へなくとも足からおりる
餅を背負ひ伝ひ歩きするみどり児の一歩の二歩の三歩の喜び
「現代短歌」H27年10月号より転載
三猿の辻 「沙羅」 二十七年六月号
あなたの毎日にキレイをーコスメティックみれ 朝霧の中の看板
覚えたる言葉はばあばまでにして次回の会ひの待たるるじいじ
あごひげの一本抜かむとせる手つき電車に男が繰り返しをり
夜の底に別れ来しなり病む夫の丸山ワクチンの話しの途中
山里の女子中学生ら夕つ方二人と一人に別るる三猿の辻
「沙羅」H27年6月号より転載
ご隠居の鯉 平成27年3月『文芸熊谷』第四号
池の辺に佇むわれの素性さへ知らず寄りくる緋の鯉真鯉
紅白の身を冴えざえと泳ぎ来し緋鯉の威風わが影に入る
冬の陽は池の面に輝りさざ波を光の紐にし鯉の身を巻く
吾の前を泳ぎよぎりし緋の鯉の忘れ物せし顔にもどり来
ご隠居の悠然たるさまに泳ぎ来て大鯉半身を池底に擦る
『文芸熊谷』第4号より転載
熊谷百景 『熊谷歌集』創刊号
高城神社出初式二首
草食系美形男子のはしご乗り天空に「ヨッ」と手を離したり
はしご乗り逆立ちをして大の字を身に描くとき梯子傾く
根岸家長屋門修復二首
無造作に胡蝶花の葉蔭に置かれたる石あり石に戻りたる臼
くづほれて闇に沈まむ長屋門熱き志に存らせむとせり
高城神社胎内くぐり二首
テンポ良く歩みて来たる幼児の茅の輪をまたぐときに転びぬ
本殿へ続く炎天下の舗装路を靴を履かせて犬を歩ます
奈良耕地二首
熊谷は空が遠いと言はれたり関東平野の真つただ中の
浩浩たる麦の畑のそのはたて上毛三山雪景色なる
星溪園二首
さはがしき心のままに来て観れば深緑の木木静水の池
てんでんのやうで緩やかな群として池のあちらへ鯉移りゆく
『熊谷歌集』創刊号より転載
H26.3 「うた新聞」3月号に巻頭作家「雪の降る世」15首
雪の降る世
雪もよひの夕べの茶房に聞きてをり熱く語れるこれの世のこと
雀らのたはむるる声だまらせて雪に雪つむ音に静もる
きなくさき臭ひこもれるわが庭にひねもすかけて雪降りしきる
くにたみの白き吐息の降るごとく国会議事堂雪景色なる
二大政党強く望みて来たりしが今年の雪は達磨にならず
自衛隊にもいつしか狎(な)れてこの冬も除雪出動に人ら喜ぶ
つづまりは諦めにおちてゆくはめにや正午(ひる)より雪のさらに勢ふ
絶え間なきかの暴力の日日を存へてこの雪のゆふべにひとつ生終ふ
防犯灯にうつしだされし雪の庭この世のものにあらざらめやも
女(をみな)ひとり雪の朝(あした)の野の道を傘を片手にそろりそろりと行く
愛想よく声掛けしとき凍る道過ぎゆきざまに人の転べり
常日頃見かけることなきお隣の老女も門辺の雪をかきをり
道はづれ雪の深みへ行く犬に綱を曳かれてをみなよろめく
雪の耕地にきは立ちてをり大都会に待てる者らへ送る鉄塔
勢ひよく走り過ぎたる乗用車の撥ねたる雪解(ゆきげ)の水を身に浴ぶ
「うた新聞」H26年3月号より転載
H26.2 「現代短歌新聞」2月号に巻頭作品「麦と」13首
麦と
速すぎずかつ遅(のろ)すぎずママチャリは鄙(ひな)の移動にほどほどに良き
くわうくわうたる冬野にさきがけ彩れる霜の柱のなかの青麦
妻と子をのこし征きたるあの日より七十年経しこの麦の色
志願とふ命令ではなき命令に嘘ではなき嘘をつきし若者ら
本当の事を言はなくてどうする 言つてどうする 白き眉毛に
あの頃は農家の主まで駆り出しし足掻きの策を憎みき麦を踏みつつ
どうせとふを冠する言葉いくそたび聞きたるやうな言ひたるやうな
国に縛られ土地にしばられ生きてきて押し掛け談判したる事なし
いつぽ前へ踏み出す事もひととき後ろへ退(しりぞ)く事も今なら出来る
毒針をかざす冬の蚊現はれてブスリプスリと刺し始めたり
ひと夏の栄光の座よりずり落ちて流れ貧しき歳晩の川
青麦は風を選ばず吹く風は麦を択ばずあはき冬の陽
庭に続く麦の畑で孫子らは凧揚げてをりそれだけのこと
「現代短歌新聞」H26年2月5日号より転載
H26.1 「現代短歌新聞」1月号に作品「御姿岩」5首
御姿岩
朝五時に星のかがやき夜五時に星のまたたくこのころの空
腹のあたり色のはげたる布袋像われよりややに高き目の位置
幾百の石(いし)階(きだ)のぼれば神域の森厳たるは極みを知らず
中天に「御姿岩」を仰ぎ観る言はれて見ても巌(いはほ)のかたち
ここに二基ここには三基また三基墓石を置く山ふかき郷(さと)
「現代短歌新聞」H26年1月5日号より転載
H25.12 「短歌」12月号に作品「スマホの家」7首
スマホの家
冗談がまだ通じざる幼子を囲みて大人らの苦しき笑ひ
老い吾の歩み来し道若者らのこれからの道てんでんの道
神仏に祈り願ひしいくそ度ありしが今日はややに本気に
心疲れにラジオ音楽聴きゐしに解説者の声割り込みて来し
家族の顔を見るのも否みし少年が顔なきスマホの家に住みつく
言ふわれが歯の浮くやうな誉めことば承知の上でときどき使ふ
非嫡出子・婚外子などの日本語ありて広辞苑など見出し語とせり
角川書店「短歌」25年12月号より転載
H25.10 埼玉の文芸『知の海へ』作品「中の家の楷」20首
中の家の楷 渋沢栄一生家 平成25年5月12日
渋沢栄一の親の代まで代代の当主の名前はみな市郎右衛門
藍商人が名字帯刀許されき栄一の生家前庭に銅像の建つ
孔子墓所に生える楷(かい)の木の孫にして中(なか)の(ん)家(ち)の庭に今も生きつぐ
青淵の生家は間口十三間木造二階建の養蚕農家なりき
入室は土間までとせる渋沢邸畳の艶のいと白白し
渋沢栄一生家の敷地は一町歩と庭を掃く手を止めて人言ふ
宝蔵 米蔵 藍蔵 座敷蔵 いにしへ人の土蔵シェルター
土蔵には地下室もあり藍玉の製造所たりしとふ見るは叶はず
いにしへの産地にあれば蔵の基礎塀の基礎にも煉瓦を使ふ
米蔵にアルミサッシの窓備え国際学園女子寮にせし
蚕室の二階も男子の寮として外国人留学生学ばせしとぞ
目に太きけやき樹にして言ふとなく二人抱へても余るを計る
青春のみづみづしかるこころざし天突くさまに孟宗竹(もうそう)の子ら
木もれ日を身に浴びながら鋤持ちて皐月の雨後の竹林に入る
短所は自然に消滅するといふ翁の遺訓も町おこしにと掲ぐ
幕末の高崎城乗取り計画などスケール大きかりき青年栄一
沼の辺に尺余の石の祠あり「血洗嶋邑」の文字を刻せり
渋沢栄一翁生誕の地を巡るときネギの市況の有線放送(はうそう)ひびく
渋沢栄一一番番頭末裔の店ありて「青淵亭」の扁額掲ぐ
食舗あり「人間貴晩晴」に為書きの青淵の書を掛軸(ぢく)に飾れる
埼玉文芸家集団編『知の海へ』より転載
H25.9.1 「現代短歌」9月号に 作品「火垂る」7首
火垂る 金子貞雄
穢土(ゑど)の水飲みつつ生きる人ら憩ふここは螢の限界集落
海の辺の人工光垂(ほた)る目覚めたる人らの声に発光を止む
闇の世にあへぎつつ生くる男来て闇の夜に舞ふ螢観てゐる
川の辺を離れしほたる軽風に乗りて代田(しろた)をひとつ越えゆく
ほたる舞ふ川沿ひの道を子供らのかん高きこゑ群れつつ移る
草むらの根方に深く沈みゆくひとつの火垂るの墓ものがたり
をさな児にはうちはを持たせ浴衣着せ下駄も履かせて来し螢狩り
現代短歌新聞社「現代短歌」H25・9創刊月号より転載
H25.8.1 「歌壇」8月号に 作品「季春漫遊」7首
季春漫遊 金子貞雄
昭和二十年ルソン島マニラ沖没真水にて洗ふ墓石の温み
放置空き家の治安景観何の其の子らは地球防衛基地とす
吹き方を覚えはじめしをさな児の全身で吹く手遊びラッパ
深夜吹く風心地良し灯を点し来む人を待つごときコンビニ
みどり児は何か言ひをり言葉には未だならざるこゑの範囲に
こゑ高く鳴けると低きと鳴き交はす春の雀らの老いらくの恋
おれおれも振り込め詐欺も改めたる母さん助けて詐欺も古めく
本阿弥書店『歌壇』H25.8月号より転載
H25.5.1 「沙羅」5月号に 作品「闇の色」5首
闇の色 金子貞雄
暗闇の暗きと闇との違ひなど思ふ余地なき寺の胎内
黒の色に塗られし闇かこれの世の色に闇なし闇に色なし
戒壇のまつ暗闇の中を行く前後の女人(によにん)の手など触れつつ
蕎麦の郷なれば蕎麦皮まんぢゆうを作り続けて名物となす
優先席に座るアラサ|二人眠り三人ひたすらケータイを繰る
「沙羅」25年5月号より転載
H25.3.20 「文芸熊谷」第3号に作品「火の華祭り」5首
火の華祭り 金子 貞雄
猛暑日の続きてゐしが熊谷の花火大会午後より小雨
雲に住まふ雷神の庭に開くらむ打ち上がりたる菊華(きくくわ)の蕾
雨雲の裾ややあがりたり火の華は美麗の半顔隠しつつ舞ふ
遠花火音のずれつつ居間に観るこれも乙なるビールの肴
四歳の夜景に見しは熊谷の上空明るき火の華祭り
『文芸熊谷』第3号より転載
H25.2.1 「短歌往来」2月号に 作品「語り部の川」6首
語り部の川 金子 貞雄
深緑の影なす色に分け難く玉の池深くうろくづ動く
玉の池に湧き出でし水星川となり熊谷人のこころ潤す
熊谷の大空襲知れる星川は今を流るる語り部の川
星川橋の被災者慰霊女神像母は手に触れ子は手を伸ばす
水あれば津波を想ひ土あれば原発思ふ 意志とし消さず
今にして思へば巳の年開戦の年に生まれてその性を曳く
ながらみ書房『短歌往来』H25.2月号より転載
H25.2.1 「沙羅」2月号に 作品「緋の色の背」5首
火の色の背 金子貞雄
爆撃に人ら逃げ込みし星川を焼け崩れたる家覆ひしと
秋深き星川の水浅くして石橋の下に寄れる影あり
星川は戦災の川群れ泳ぐ鯉のいく匹火の色の背(せな)
星川に夏の夜(よ)寄りて満月の浮くごとき灯(ひ)のとうろう流す
星川にナマズも棲みてゐし記録数年前の事実(こと)とし掲示(かか)ぐ
H25.1.1 「現代短歌新聞」1月号に 作品「ヒストリー」5首
ヒストリ― 金子貞雄(作風)
回遊式庭園望む数寄屋(すきや)にて竹の濡れ縁を月見台とす
月見台より茶室へ続く飛び石は天柱石とふ朝鮮の石
清正が秀吉に献上せしとふ袖振り石片袖(かたそで)失せてこの園にあり
憂国忌まぢかに迫るつくばひに黄葉(もみぢ)なかばのわくら葉の浮く
「ザ・今夜はヒストリー」の収録に使はれし茶室と園丁の説(と)く
「現代短歌新聞」25年1月5日号より転載
H24.11.1「短歌」11月号に 作品「五万本の足」7首
五万本の足 金子 貞雄
短くもひとつの命完結しとはに未完の恋人の絵の
ここに飾る自画像どれも若くして無愛想なる男のばかり
たれもかれも足を描かず意志立てて眼鋭き額の自画像
薄れゆく大過の記憶おしとどむ補充に徴されし画学生の絵は
いにしへの大規模な策今ならば自爆テロとふ総称の内
雨降りしきる神宮外苑を行進せし五万本もの若者の足
夏の日の出来事としてハードルに口づけをせし劉翔の足
角川書店「短歌」24年11月号より転載
H24.8.22 「しんぶん 赤旗」に作品「心の画布」5首
心の画布 金子貞雄
出征の間近となりしいちにんの心の画布に素裸となる
征く前に描(か)きし恋人の唇に光芒のごとき白を置きたる
恋人を「あと五分」とて描(か)きしとふ絵を前にしてあと五分佇(た)つ
死にに遠きはるかに遠き者たちを死にに追ひ遣(や)りたりし時代(とき)あり
若きゆゑに死を強ひられし如き時代(とき)描かれし絵画は永久(とは)の語り部
「赤旗」H24・8・22号より転載
H24.7.1「歌壇」7月号に作品「血の色の文字」7首
血の色の文字 金子貞雄
大本営移転計画極秘裏に練られゐしころ父応召す
隠蔽(かく)されし事事(ことごと)をして見抜けざりきかの大戦もこの原発も
地下壕の通路(みち)荒荒し尖りたる心のごときものに躓(つまづ)く
壕内の岩壁(かべ)に書かれし血の色の文字は日本の漢字にも似る
常ならぬことにて異国の民草の霊(たま)さまよふや地下壕の闇
供養すと建てられし塔民族の末裔(すゑ)の詣づる人影を見ず
地下壕を掘り進めゐる隣国の岩片(ズリ)山を人工の衛星とらふ
本阿弥書店「歌壇」H24・7月号より転載
H24.4.25 角川書店より第7歌集『こまひの竹』が出版されました。
H24.4.25 角川平成歌人双書として第7歌集『こまひの竹』が、角川書店より出版されました。平成10年から15年までの作品471首。定価2571円(税別)
稠密(ちうみつ)な緑の山の神神のわが神神の中庸(ちゅうよう)思ふ
「へえ」と言ふ母の口癖 嬉しきも哀しきときも軽く驚く
文明の開けたる口に手を入れて「お〜いお茶」は自販機に買ふ
過去完了の話題もいくつか織りまぜて小川の土手を妻と歩みぬ
戦争ごつこ知らざる世代が三人にて一人の老いを刺し殺したり
紅葉(もみぢ)狩り今日はとことんのほほんとゆるみつぱなしの己を許す
H24.4.10 「現代短歌新聞」に作品「釣瓶井戸」5首
瓶井戸 金子貞雄
核分裂の制御も敵(かな)ひし今の世に釣瓶に井戸の水を汲みをり
重重と引き上げし釣瓶一先(ひとま)づは丸み帯びたる井(ゐ)の縁(へり)に乗す
釣瓶井戸の闇より汲みし木の桶の揺らめく水の陽(ひ)に耀(かがよ)へり
凍るほど冷たき綱に引き上げし釣瓶井戸水手にあたたかき
カットありスマッシュもある女らの会話のラリー釣瓶井戸端
「現代短歌新聞」H24・4月号より転載
H24.3.20 砂子屋書房より『金子貞雄歌集』が出版されました。
H24.3.20 現代短歌文庫『金子貞雄歌集』が砂子屋書房より出版されました。
内容は、第三歌集『邑城の歌が聞こえる』全編400余首、『孀娥の森』『天にほのかな花あかり』『熱鬧の街』『聲明の森』等の歌集から自選300首。他に私のエッセイや大野誠夫、津川洋三、大河原惇行氏らの作品解説から成る。
定価1600円(税別)
「短歌現代」平成23年5月号「巻頭作家 金子貞雄氏」より
「ふらりぶらり」25首
子らの住むは石製の十階一号室帰り路に食ぶは月島もんじや焼き
命危ふきは二度三度ありて鄙の里に細藺(ほそゐ)灯すを許されてゐる
正門は東にあれば西よりは小麦畑の畦を通り来
友来れば友の心の雨降れば雨の趣(おもむき)見つつ茶を飲む
鄙住みを讃ふる人あり蔑むもあれど鄙人の関はりの外
品格の時代に生きて蜂起せず 困民党のいしぶみの建つ
冬を眠る田のきらきらの薄氷わらんべら割りくつを汚せり
小盗はときどき来るが家屋敷鎖(さ)すこともなく鄙に生き継ぐ
鄙ながら薄縁の社会 顔の無きポストに配る「市報くまがや」
人居れば大事なくとも立ち止まるおまはりさんは自転車が良き
小百姓にも来し戸別所得補償モデル対策交付金申請関係書類一式
こ難しい事言ふたとてこの減少に歯止め掛からぬ 何の事かや
二次と三次も足して農業の六次化産業法とぞ 巫山(ふざん)を戯(け)るな
舗装路を歩める吾はコンバインやり過ごすとき畦道に入る
麦畑は時代の速度に遅れつつわが庭先のパワースポット
年金でまかなふ夫婦の生命の維持費と農地維持管理費と
百姓が農家に頼む米作りまた麦作り農業機械春耕始む
牛馬道に農業機械走り来てふらりぶらりと鄙も歩けず
大戦の後に農民らの手に入れし虫や草や人を殺せる薬
麦藁で編みたる母の麦藁帽子古りてほど良き劇の小道具
寒くても暑くても熱き白湯を飲み専業農婦を生ききりしなる
うしろ手に麦踏みし母 ローラーで圧しつぶしゐる機械の音す
二十歳より家を親父を背に負ひて鄙のならひに生かされて来し
母を悩ませ吾の追ひつつ親しみしからすの勘三郎はハシボソの鳥
幾たびも死を遠ざけてまた近づけて最早背に負ひ生きなむとせり
第一歌集『孀娥の森』
第二歌集『天にほのかな花あかり』
第三歌集『邑城の歌が聞こえる』
第四歌集『日乗』
第五歌集『熱鬧の街』
第六歌集『聲明の森』
以下 第一歌集から第六歌集の作品をご紹介します。
第一歌集『孀娥(さうが)の森』(抄)
機(はた)織りの母のかたはらにひとりゐて馬の絵を描く父なき吾は
夕つ陽を突き刺し万能振りおろす意地を見よとぞ嬬蛾の母は
昼日中飛翔のかず数試みし家鴨と吾と大地を歩く
きらはれて嫌はれてなほ生きてゆく鴉を吾はもつとも愛す
蝉よりも果敢無(はかな)き者の紙柩兄(あに)妹(いもうと)のうばひ抱きあふ
蝉の家に逝きにし妹にと土かけて吾子は漸く今日を越えゆく
忘るれば風より軽くをるものを器(うつは)に朝の水満たしをり
水鏡踏みしだきつつ往く牛は鼻繋がれて植ゑ代(しろ)を掻く
引き入れて川水かける吾が牛の泥も涙も洗はむとして
頭を刺せる錐に執拗に巻きつける鰻を剥がすごとくして焼く
七人の子等さいさいと蛍粥すすれる音にまなぶた閉づる
企みの悪しきまひまひ満つる穢土の空を清楚を虹渡りをり
若竹の緑爽やかに靡きゐて人はそれぞれ心ことなる
第二歌集『天にほのかな花あかり』(抄)
よひやみの天にほのかな花あかり誰のかくれし洞にてあらん
父の背のたかさをしらずいつの日も梁のうつし絵我を見下ろす
やがて娘は離(さか)りてゆかむ露の原乞はるるままに肩車せり
荒れはてし煉瓦の壁の穴くぐり兵たりし父に会ひにゆくなり
生と死をわかつ一息吐きをへて宵をしづかになりゐたるなり
関節のふときをいひつつ骨ひろふ拾ひきれざる悲しみがある
存在も不在も一時の夢のごときのふの花のけふ散りいそぐ
せんぢやうの父の手紙の検閲の墨に消されし叫びを読めり
父と子の指のあはひに虹いろの綾とりの糸かけわたすなり
金銭にならざる短歌に執しゐると寝言のやうな妻の愚痴聞く
実の父をうしなひ妻のちちを失ひ歌の父もうしなひ我を失ふ
地を吊れる無数の糸のごとく降る雨の深夜のこほろぎのこゑ
第三歌集『邑城の歌が聞こえる』(抄)
北支派遣楓第四二五五部隊三角隊金子文雄 母に宛てにし一通の文
発つわれと見送るははの宿望の旅なり いざや父の戦場
戦争に死にたる父の名を呼びし記憶もあらず 砂の街訪ふ
車曳く牛に会ひたり 牛売りて父はたたかひにこの国に来し
父あらば父あらばとて野に建てる大雁塔の芯を昇れり
国の大義背負ひし戦争いつの世も民の悲哀をもつて終れる
この悲劇あの悲劇さへ悲しまずかの悲劇より勝るをしらず
さう、かの時代のおびただしき死のひとつでありしよ 父も
呼ぶ声の水にひびかふ夕間暮 兵とふ兇器に人はなり得る
大戦を知れるさいごの語り部となるかくごせり風の街きて
第四歌集『日乗(にちじよう)』(抄)
第五歌集『熱鬧(ねつたう)の街』
母親の街
愛情は空気とはならず一本の紐のごとくに子に絡みゐる
あかつきの都会の路地裏に鴉群れ人は余所者(よそもの)の顔をして過ぐ
荒草をへだててとほく立つをとめ風を友とし一日(ひとひ)帰らず
おほいなる運命の露に濡れし足以来四十年余乾くことなし
親の岸と子の岸渡して幅狭き冠水橋が時折きしむ
荒野吹く風の寒さをこらへつつ娘は近づく未来を語る
ことさらに我にさからふことをいふさからふことで子はなぐさまむ
戦死せし父の背丈を知らざりき 吾を鯨尺もて母は計りし
少年行きの電車に乗りてゐたりしが目覚めてみれば母親の街
壮年を過ぎたる古き梅の枝に春告げ鳥は仏来(ほとけく)と鳴く
三世代五人家族は昼の部の舞台終れば三部屋に眠る
高々と積み上げられて手足なき達磨に今し火を点じたり
たまさかに早く帰宅す食卓の椅子足らずして吾がはみ出る
外(と)の面(も)吹く風の起伏をわがものとなして娘は丘ひとつ越ゆ
妻となす会話に娘の割り込みてきてとどのつまりは妻に味方す
星空に根を張り息づく冬の欅めぐらす家の子らもねむれり
予備校生の息子が立つる自炊の音に病みて臥(こや)れる妻がもの言ふ
風媒すすむ
暁(あかつき)闇(やみ)に枕時計の針ひかり対決せねば気がをさまらぬ
家のめぐりを恋(こほ)し恋しと鳴く鴉なんで喪服の色などまとふ
一(いち)か八(ばち)かの分かれにあれど若からず二か七かの賭けにしておく
からくりの糸にうごける人形の悲哀のかほを見てしまひたり
霧雨に濡れ来る女しなやかに手をかざしつつ髪をかばへる
首にして耳に指はた両腕に輪をするをとこ鼻までもする
こころ荒(すさ)びし者らの遊び公園の流浪人(さすらひびと)らを銃でねらへり
五線紙の五線をはづれ置かれゐる四分音符のドが揺れ止まず
蛹のごとく寝(い)ねゐたるらしが地下道の朝(あした)に蝶の羽化のごと発(た)つ
虐(しひた)げて尺にみたざる石榴(ざくろ)の木に実のつきたると鉢ごとに見す
昭和の世を稲なびかせて風は吹き核爆弾(かく)に無知なる風媒すすむ
慎重に優柔不断を塗りかさね人の上に立つ顔になりゆく
鷹に成さむと杳(とほ)く夢みて来たりしが子と連れだちて水辺に游ぶ
辻堂にひたすらなりゐし合掌を解きて老女(おうな)は夕影となる
鋭(と)きこころ遊ばせに来し昼さがり火を消す車を人洗ひをり
利根川を鯉のぼりゆき碑となりて帰郷叶ひしいちにん偲ぶ
(竜ヶ崎一校に大野誠夫歌碑建立)
長椅子を逆さまにして括りたる太鼓に復習(さら)ひ汗は飛び散る
白昼にすれちがひたるE電の老人優先席(シルバーシート)に児(こ)が眠りゐし
水張りしバケツに四五本漬けてあり次に使へるまでの篠笛
水にあそぶ輪などを持てる子をつれし男がうかぬ顔をしてゆく
病む者ら椅子あますなく陣取りて生きるといふは凄(すさま)じきこと
よしなよ 時代の壁を蹴とばしたつて動くやうな代物(しろもの)ではない
夜の風が運び去る夏の名残の「ビューティフル・サンデー」の曲
互ひに知るに
他の底の影の動きを覗きをり子宮を切除する前の素顔に
夢のなかを象が歩みてゐたりしと身を病む妻が拉(ひし)がれて言ふ
髪の毛のややの乱れを気にしつつ妻手術後の昼をこやれる
鰭(ひれ)ながくおよぐ金魚のあやふさに手術ののちを妻の立ち居す
ひとりでと言ひつつ妻は身をあづく退院の日の自動車(くるま)までの距離
病院の治療のさまをこまごまと語れり妻の癒えゆくらしも
をみななる性(さが)さへあやふき身となりしと妻は言ふなり互ひに知るに
わが裡(うち)の冷たき部分に障(さは)りしや術後の妻がやんはりと言ふ
犬の背を撫でつつ癒えてゆくむすめ葡萄の棚の下に動かず
えーえーと誰かが電話を受けてをり現も夢も混沌として
大人へのこころなりしか松の木の根方に埋めしマジンガーZ
この夜頃喪心(さうしん)の多き吾なるや茶を飲む妻がたうとつに言ふ
手術後も性(さが)失はず母として妻は鋭く子を叱りたる
他愛(たわい)なくわらひ遊べり子と居りてほとほとうまし妻の応(こた)へは
玉子焼でもつくりひとりで食べてねと病みゐる妻が言ひて眠れる
朝食の短き時間に妻となす会話はおほかた妻よりはじむ
出(で)這入(はひ)りの激しき妻は座す我に話しかけたり無視したりする
わが母に其(そ)が似てゐると折に言ふ妻に言はるるゆゑに淋しき
うはさを喰ふ
荒物を売れる小暗き店の奥に火鉢をなぜてゐたり老女(おうな)が
息の緒(を)の絶えなむとしては立ちあがる焚火の煙見続けてゐし
大羽(おほばね)をひろげやたらと飛び移るからすの群の下歩みゆく
柿の実の陽に朱々(あかあか)と照るしじま生死をわかつ時をいだける
過去といふとほき時間をあゆみ来てけふ咲く蓄薇の一茎に遇ふ
端正に和服着こなしスーパーのきうりの棘をたしかめてをり
月に帰りしかぐや姫の物語を壮年なれば美しき挽歌とおもふ
母の背に括られながらも手を伸べて空の蒼さを掴まむとせり
低き背を風にふかるる冬の菊こころ乾けるものをなぐさむ
ひぢ張りて生きゐるわれか西へゆく新幹線の座席がせまし
日を隠(かく)し月を隠せる摩天楼そらごとばかりが地にはびこれる
歩行者天国(ほこてん)となりたる道を乙女らは人のうはさを喰ひつつ歩む
街角の護美箱に何かを捨て来たるをんなの暗き視線に会ひぬ
真昼間に鳴れる警笛 起(た)つことを久しく忘れてゐたる心に
弱弱しき乙女たりしも時を経て母の顔して子を叱りゐる
すめらぎの病む
荒川の浅瀬に群るる鳥類の音なき世界 すめらぎの病む
隠れん坊してゐるうちに日の暮れて母と吾とが取り残されし
うすずみに汚れし白鳥首のべておどろきやすし時のうごきに
鴉らはうとまれながらも都市にゐて四季折折の飽食に生く
枯れ葦のあなたの釣り人冬の瀬の景色となりて鳥類あそぶ
合格を祈る親子の連れ立ちて武州文殊寺の春はにぎはふ
白鷺のやすまむとしてあげし足光となりし雫をおとす
天皇の戦争責任問ふ議論 かまびすしもよ猫らあらそふ
白鳥の発(た)ちし羽音の余韻さへ消えてふたたび瀬は静もりぬ
燃えさかる夕日の彼方いつまでもわれの奴凧(やつこ)が地に戻れざる
すめらぎの身罷(みまか)りし報にああと言ひ明治の母の他(ほか)には言はず
逝かしめしひとつの時代冬の野を焼ける煙の立ちあがりたり
野獣らの群
上野駅三・四番線ホームの朝八時二十分時間に飢ゑし野獣らの群
俺は正気だ馬鹿にすんなとわめきゐる駅の通路の人混む中に
かう言へば斯う来るものと知りながらかう言ふ他になしと決めたり
硝子戸を隔ててこずゑの黒き鳥人疎みつつ人を断ち得ず
寸志をいただきましたと披露されもう二度と出すまいと思ふ
誰からも指図は受けぬと粋(いき)がりてやがて静かに落ち込みてゆく
定年で退(や)めたるかつての上役が下請企業(したうけ)にゐて低く頭(づ)を下ぐ
止り木に止りてコップの酒を飲む背黄青鸚哥(セキセイインコ)のやうな夕ぐれ
ながながと信ずる道を歩み来て徒歩(かち)に疲れしが乗る馬もなし
命令にさからはずして且つ従はぬ若き世代に追ひ詰められし
よしよしと聞くは上司か酔ひながら若きがしきりに喰(く)ひさがりゐる
明日も笑へ
あなたは電車の中でも眠れますからねと妻は突き放し言ふ
枯れ芝にはしぶとがらす飛来せり一羽といふは優しき目をす
草をむしりゐるとき不意に逝かしめしみどり児の名を妻は言ひ出づ
苦しむほどに笑ひころげる今日の妻いつになく愛(いと)し明日(あした)も笑へ
チョコレートを型に固めて乙女子は文字で飾れる時に騒がし
点滴の液切れコールおほかたは早過ぎてゐて看護婦怒る
通り雨すぎて静かな病室に酸素のとほる水の音立つ
とびかかりたる猫に逃れし黒き蝿たちまち妻にはたき落とさる
生ごみでも捨てて来てよと妻の言ふ掃除機さげて近づきながら
眠りたると思ひゐし妻が突然に子供に責任あらざりと言ふ
娘への電話の相手の男の子ある日を境にはじめに名乗る
死にし犬の首輪をはづす 望まれて成さざりしことを今は成しやる
掘り下げし穴にころもを敷きつめて死後硬直の犬を寝かせり
金子ジョンと記せし木片建てし墓地の犬稗(ひえ)の蔭より蟋蟀の出づ
都会のライオン
おのおのに鎌など持ちし一群がこゑを合図に立ち上がりたり
公園に水噴き上ぐる蛇口ありて都会の若きライオンが寄る
幾代代をたがやし祖霊宿る土地を一坪いくらで値ぶみされをり
宇宙よりの電波受けゐて秘するかなわが耳ほどのひるがほの花
うながされ玉乗り観(み)する象は鼻を高く掲げて個を失はず
経団連のビルを出で来て風さむし地下空洞の都会の道は
サーカスの鞭に踊れるライオンのときどき野性の咆哮をなす
さんさんと金のころもを脱ぎ捨てて公孫樹(いちやう)は孤高の男なるべし
子子孫孫土の中にて生き継ぐかもぐらは天与の域を侵せず
他愛なき話(はなし)する人らの立つ道に野生の距離を鴉はたもつ
耳を裂くこゑに啼ゐしかなかなを一刀に断ち秋は来たりぬ
喪神をなす
ギリギリと日を締め上ぐる油蝉 をとこの甲斐性と言へる曲者
都会に棲む嘴(はし)太鴉に天敵を見るごとき目に見据ゑられをり
暗闇の中にまぶしき光ありひかりの中へ身は昇りゆく
昨日まで咲き盛りゐし富貴草(ぼうたん)のどどと崩れて喪神(さうしん)をなす
黄の色の蓄薇と夏の暑さとを抱へて見舞ひの客の入り来し
午後七時病院の廊下を歩み来るは妻なるべしと待てば妻なり
過去の少なき男と未来の少なき男とが病みゐる四階〇二(ぜろに)号室
緋の鯉の泳げる川に橋ありて宵宵老いは幼児ともなふ
病室のテレビが映すコマーシャル 「二十四時間闘へますか」
病院の日日の時間割もおぼえたり覚えることは哀しかりけり
電灯の消されてにはかに闇となる この世にあらば光もどらむ
われの不覚
穏やかなりし正月三日間(さんがにち)の話より切り出してみて機をうかがへり
門田さんの逆転満塁ホームランを秋立つ酒場の椅子に見てをり
この御仁はこの頃われを避けゐると感じながらにしばらく話す
酒に酔ひネオンの隧(ずい)道(だう)くぐり来て闇濃き吾の海をたゆたふ
仕事の上で男が女に負けてゆくドラマなれどもいくぶん悔し
少しつつ思惑立場がずれながら案ひと回りして骨抜きとなる
そろそろ彼の反駁あらむ 二本目を引き出し煙草に火を点じたり
重大を決せんとして必死なりおのおの依れる立場守りて
沈黙を守りゐし同輩(やから)がおもむろに目をそらしつつ口開きたり
敵意を見せず好意も見えずひたすらに吾の話が吸ひ込まれゐる
手際良く女が仕事を片付けて五時なり飲みに行かぬかと言ふ
ひらひらと紋白蝶の飛ぶごとく何を不満で扇子であふぐ
昼日中はしぶとがらすが路に立つ 人は言葉に傷つくものを
身を挺しもの言ふ男 保身一義にながむる男 色が見え初む
目的を踏み越え手段が暴走し燃え上がりもう手がつけられぬ
吾は本意をすぐに曝してもの言ふに組みしやすしと思はれてをり
男は女から生まれたのですよと言はれてゐる われの不覚
アメリカ留学
行つて来ますと言ひし吾への応答がどこからともなくありて 妻なる
押し売りをことわるときの手練(てれん)などをりをり妻の立場が光る
帰り来し娘がいきなり抱(いだ)きあぐ未来のやうな子猫の「地球(テラ)」を
繰(く)り言(ごと)を猫にむかひて妻の言ふ猫にむかひてわれも応対(こた)へる
月下美人の咲きはじめたると声高め厨あたりにゐむ人を呼ぶ
寂しさを抱きかかへたる微笑(ほほゑみ)を妻に見てとる 子に関りて
時間の多寡で幸せ測るにあらねども妻との日常寡の日日多し
すぎこしを顧みるゆとり得し妻は煙のやうなこれからを言ふ
するめを十枚買ひたる妻がその帰路に大人を二枚くださいと言ふ
成人をことほぐ式の始まりの時刻(とき)と言ひ出づ 二浪の吾子が
洗濯機に注げる水を掌に受けて妻ははじめに顔を洗ひぬ
大学入試つづく息子と妻と母と我が家の三世代に迫はるる鴉
突然に妻と張り合ふ大きこゑ張れども張れども子が負けてゆく
はればれとフランス料理つくりゐる大学受験を終へし息子が
孤(ひと)りにて悩み経し日日を言ひ終へて浮かべし少年の涙たふとぶ
スパスパと燕切り裂く空に向きアメリカ留学を言ひ出づる吾子
道ひとつひらかれながらも少年は汽水(きすい)のやうな心を言へり
鬱鬱の長き日日経て来し息子こよひ将棋をせむと寄りくる
どんでんどんでん
屈(かが)み泣く子に早く来よと叱りゐしが道を戻りて抱(いだ)きあげたり
死活の区分定かならざる電纜(ケーブル)が都会の壁より垂れさがりゐる
新幹線あさひ号新潟行最終便をさな妻は乳呑(ちのみ)児(ご)いだき暗く乗り来し
吸殻入に煙草捨てると見てをれば寄りて一口さらに吸ひたり
先生と呼ばるるを見れば老婆にて不審の顔を見てとられたり
摑み取りの硬貨を握り箱の口より引き出さむとし二枚落とせり
終(つひ)の身を焼かむ施設の建設をめぐるあらそひなかなか解けず
東京を売ればアメリカが買へるとふ愉快な話題も手放しならず
飛びながら鳴き行く鴉朝(あさ)日子(ひこ)を喰らひ再び明日発(た)ちて来よ
長からぬ命の君を見舞ひしに水羊嚢は小倉(をぐら)いただく
夏の日には騒然たりし森に来て秋の沈黙の手強さに会ふ
南極へ打ちたるといふある妻の電報熱き四文字「あなた!」
日輪を呑みくださんと秩父嶺がどんでんどんでん身悶えてをり
はつなつのひるのひかりにてらされて芥のなかの宰相の顔
見渡せば寒寒として風かよふ詩城へいたる冬枯れの道
四十度ほどに傾くクレーンが重重と吊る冠雪の富士
露地の石や高柴垣も越えゆきし忍者(しのび)のごとき時の移ろひ
社畜ですか
いま一度頼むと言はば為ししものをいちど拒みしままに終はれり
今ならばまだ出来ること数多くあると冬咲く薔薇を見てゐき
切り抜けること能(あた)はぎりと観念したる思ひが寝しなに増殖始む
ここが一番大事の折にことごとくしくじりて来て今日またひとつ
再生紙と善かれし名刺を受けしゆゑ地球資源の話よりはじむ
酒一杯注(つ)がれしをりに「先輩は社畜(、、)ですか」と詰め寄られたり
たつぷりと水を含みし意地ひとつ捨てどころなく家までも連(つ)る
誰も彼もあれもこれもと愛しみて忘れてゐたり己といふを
机を叩きいきどほりたる興奮が夢の戸口に来て戸を叩く
丁寧な物言ひのなかにも年上の部下が時折言(こと)の針刺す
友たり得ぬ奴かも知れぬもよしとせむ大軽率鳥(をそどり)が明け方を来る
退屈な魚
疎みゐし娘が遠くへ行く時に見送るわれの手を握りしむ
留学を望める息子 大学の決まらぬ娘 降る雪を見てゐる
咲くも梅つぼみも梅ぞ正解はひとつにあらず迷はずに行け
外(と)つ国に学ばむとする心太(こころぶと)を育みてゐし息子とぞ知る
いよいよに渡米の前夜の子と居りて問はるることも問ふこともなし
別れ際には日だまりよりも暖かき言葉掛けむと思ひゐたりしが
老いし母と庭のうぐひす朝なさな目覚めといふは哀しかるらむ
厨辺のタイムスイッチ切れし音もう間に合はぬことひとつ増ゆ
厨辺の妻は刃物を研ぎ上げて退屈さうな魚を割きたり
それなりに相槌打ちてゐしものをにはかに妻の怒り出したる
卓上の皿のかずかず幸福といふ一幕一場の芝居も終はり
たそがれに芥を焼ける火群(ほむら)立ちわが護るべき人あり 寒し
鳴きながら月夜の杉の山越えてゆきし鴉の切迫おもふ
右足に靴履きしとき「忘れ物ないわね!」といふ一撃くらふ
吾の手の届ける距離にいつも居て煙のやうな存在である
鳩の蝟集
荒草の枯れたる貨物の操車場に降伏の白き旗を振りゐる
縁台に降りし花びら二三枚掌に払ひつつ人をいざなふ
考へる人の像あり 考へるばかりで未だ結論出さず
恐(こは)き人と思ひゐたりしと言はれしを鏡の前に立ち思ひ出づ
猩猩の髪ふり乱す竹林けふよりも明日は優しく生きむ
剪定をされしポプラが敢然と握り拳を天に突き上ぐ
隊列を組みたる戦車わが前にあらはれしなば石放たむぞ
「誰のものでも」と言ひかけて緘黙(かんもく)したる汝が地球観
電光ニュース一文字一文字現はれて最後の○(まる)まで読まされてゐき
汝が孤独の一人分をつつむさへ足らざるほどのをみなごの傘
鳴くさへも忌み嫌はれて追はれゐる鴉よわれのそばに来て鳴け
中の上と思ふ生活観・平和観破るアジびら握らされたり
ポケットに救急ニトロ秘め持てる突如来る死を迎へ撃つべく
松の枝を鯛は枕に餐(さん)として死後美しく舟に飾らる
舞ひ降りし雀の影を映せしが障子は再び冬の日を吸ふ
夕闇はすでに山野を覆ひたり孤高を保つこぶしの花は
読みさしの本の頁に栞置く地獄でもなき場に名を呼ばれ
路地裏に落ちゐしものが酔ひ醒めの男のごとく立ち上がりたり
餌(ゑさ)を撒く親子に鳩の蝟集(ゐしう)してたちまち姿あらざる子供
罠の兎
ありていに言へばと言ひつつも慎重に言葉を選びながら話せり
一所懸命鋏を使ひ切らむとす切れざるものは夢の中まで
言ひさしし「しかし」の後に澱みたるこの時の間に突破を狙ふ
俺は豆腐じやあない、蒟蒻だ。怒れる口調に上司が言ひき
気に入つたなどと言はれて握り合ふ掌(て)の温みさへ酒に依(よ)れるに
酌み交はしつつ戯言(ざれごと)なども言ひながらこやつの本性見抜きてやらむ
形勢を不利と見て取り喫(す)ひ始めし煙草なりしが更に怒らす
険悪な議論の最中(さなか)「まあまあ」と天よりの声のごとく降り来る
しかしともさうは言つてもならばとも大卒なれば多彩に奪ふ
じくじくとじくじくじくと鳴く地虫 陰険なまでの怒りの姿
主張せし説の弱点を切り裂かれにはかの補強が傷口広ぐ
だから言ふなと言つたらう 叱られし己(おのれ)を叱るこゑ内に沸く
手当り次第に枯れ葉枯れ枝身につける蓑虫のやうな生き方もある
出来るだけと切り出して来てしまひには吾の許容の範囲をも越ゆ
二羽三羽、六羽七羽とふくれゆく寒鴉(かんあ)の気息(きそく)がわれを威嚇す
晴れてなほ傘持ち歩く 振り上げし拳のやうに重くてならぬ
美化されし悪事の過程を見て来しにあばかぬうちは吾は勝利者
もがくほどに締め上げられて行く罠に今日は兎が一匹かかる
エンゼルならず
秋の野の日を浴びながらわが娘と共有してゐるこの時間軸
飼ひ猫を抱(いだ)けるときの仕種さへ眩しき娘となりてゐたりし
銀行振込となりたる給与支払ひのまたまたひとつ父権を奪ふ
親しみて寄りゆきし娘に金銭をせびらる 既にエンゼルならず
受験票と合格通知書が食卓にありて人目に触るるを待てり
常に退路を開きて我にものを言ふ妻 楔(くさび)を打ち込みて来る娘
つまらぬことに腹立つるなと妻は言ふつまらぬゆゑに腹も立つなり
隔たりのあるを承知で一つ言ふ二つは言はぬ妻ではあるが
もろもろの哀しみも時の洗練に清まりし妻か案ひとつ言ふ
「やつたぜベイビー」玄関を入り来て娘はⅤサインせり
沸いてるよなどと呼ばずに止めてよと妻はガス栓閉めながら言ふ
カフェ・ド・マロン
一緒に老人ホームに入居(はひ)らうねなどと背後に老女のこゑがす
お金のことは絶対お父さんに言ふべきよ 乙女の声す混める電車に
かたづけて空漠とせし吾が書斎に寝棺を置かば丁度の広さ
核弾頭そなへて仮想敵国に飛び立ちさうな千基のつくし
川土手に「ばかやらう!」と怒鳴りゐるは青年なれば吾いかにせむ
喫茶店に五人の主婦ら入り来て無差別爆撃音を発せり
黒ぶちの眼鏡の男コンビニをひとめぐりして出でてゆきたり
群衆の肩越しに見し人の死も赤の他人と昼休み終ふ
早朝を駆け抜け行きしランナーの透明感が終日を占む
酸性雨の溜りの水は吹く風に超高層ビルを揺らせり
柴犬に引き連れられし春の主婦見しにやあらむ死神の影
職場の昼休みに保険外交員来て若きらには命を売らぬかと誘ふ
世紀末まぢかにありて新しき病は人の血に潜み初む(HIV/AIDS)
千円札で三度も試しゐたりしが遂に小銭を探し始めぬ
蟷螂は斧振りかざし立ち止まる 垂直に成る街の底ひに
地下深き通路に人を眠らせて地上は寂しき雪降りしきる
月々の支払額の話など聞こえ来る昼のカフェ・ド・マロン
花曇る天に死神ひそみゐむこずゑの鴉がひとしきり呼ぶ
ひとときを咲き盛りゐし牡丹(ぼうたん)の褪せて不甲斐のなさを曝せり
百歳の銀さんがこの先五十年も生きたらそりやあお化けだと言ふ
冬の夕べダンボールの小屋道にあり風吹けば手が出てきて押(おさ)ふ
へえー・ふーん・ほんと? 熟年の女の会話は微妙にずるし
「マイッタ」を口癖としてゐし男も六十九歳で言へなくなりぬ
見栄を張り己の弱さもわきまへず牡丹のあはうが大輪咲かす
向かうより歩み来たりし御婦人のはたと止まりて踵(きびす)を返す
雪道に転びし男立ち上がり愛想笑ひを見せて去りたり
よつこらしよつと左折して来しローリー車危険といふを飼ひ馴らす街
路地裏の夜陰切り裂きはきだめの袋の中より細きこゑがす
わが髪の白きが話題の花となり花散るまでを我も笑へり
男はロマン的で女は現実的だと妻ならぬ女が言へり
サラリーマン
急がねば今いそがねばコーナーを曲がりて彼らは直線を行く
歌はいつ作るのかと問ふ上司なれば眠れぬ夜夜に創ると答ふ
おとなしき女子社員らと見て来しがだれかれ詰(なじ)る酒暈(しゆうん)の顔に
己が身にゴミ張り付くるを売物とせる掃除具の買はれてゆけり
お役に立つやうに一所懸命頑張りますと誰ぞ挨拶をしてゐる
考へを押し付くるにはあらざれど引かざるゆゑに始末が悪し
閑職を得て人淋し妻や子と睦める時を得しと言ひしが
昨日は元気はつらつを今日はファイト一発を飲みて働く
「逆風突破」のワッペン着けし若者が休憩室に口あけ眠る
配りたる名刺の数は五千枚 鰯の稚魚のごとく生き得ず
ここは一番こらふるが得との勘定に呑まむとしたる生唾に噎(む)す
語調強き転社の挨拶も虚ろなり 偉くても淋しきサラリーマン
声ひそめ話しゐたりし一人(いちにん)が旬日(じゆんじつ)を経て職場より去る
佐藤を使へないやうだつたら課長を更迭するしかないな
早期退職優遇制度 独立支援制度 企業は熟年を厚くもてなす
臓物に食らひ付きたる犬の目の 婉曲(えんきよく)なる退職勧奨の目
酒に強き上司の夜更けに洩らしたる本音の部分に眠れずに居り
酒を介し聞かむとする席言はむ席意気地なきかなサラリーマンは
酒を飲む席に居ながら人格を見定めてをり見られてもゐむ
失笑の気配残れる夜の底の目玉となりて照るにはたづみ
汐見坂下りゆくなり 従順とは力のなき者の足掻(あが)きの末路
上司とはいへども激しく言ひあひて保身いつしか捨身となれり
「それは考へ方の相違だ」と言ふ 俺に合はせろと言ふにあらむが
底抜けに明るき空のひもす鳥熱鬧(ねつたう)の街を見くだして行く
第三の策かたくなに拒みつつ上司は是か否か決(けつ)迫りくる
第四コーナー過ぎてずるずる遅れゆく一頭の馬あり映像の中
たてがみを春疾風に嬲(なぶ)らせて本心見せぬライオンの雄
女子社員らが殺虫剤を噴き掛けてやりたしと言へり部長のことを
停年退職の辞を述べをへし男一瞬踏み出(い)だすべき一歩躊躇す
時として見えざるものに操(あやつ)らる 尾花の風や激昂(げきかう)の魔など
なにごとにもわかりましたといふゆゑに安易な部下を叱りとばせり
望まれて出向(しゆつかう)せしはずの一人が濠(ほり)の軽鴨を見むと誘(いざな)ふ
のぼり詰めたる木の枝(え)の先より行き場なき蛇には鋼(はがね)のごとき池の面(も)
拍手喝采浴びつつ老いの一人去る 負ひし時間の疲れたる背に
反論を言へばたちまち尻まくるスカンクのやうに老いは来るらし
ひつきりなしに鴉の騒ぎゐたりしが鉄塔の上に星ひとつ生(あ)る
ひらひらと酔ふにまかせて喋(しやべ)りゐるやからの詰も理に適ふなり
ビールの泡の音消え失せて共通の失語地帯に入(い)りし止り木
捕虜として得たる歩兵を難局の将棋の盤の先陣にさす
負け犬の さう負け犬の吠え声が半円陣の芯より聞こゆ
やうやうに議を決したり 昼を来て憩はむ庭にエゴの花咲く
居眠りて中年サラリーマンの読みさせる戦国英雄列伝の(Ⅰ)(いち)
横一線の者らが縦に並(な)み始む徒競走(かけつこ)と言へど身に詰まさるる
「弱いから負けるんです」と貴花田 サラリーマンなれば複雑に聞く
酔ひて言ふ訳ではないがと断りつつ酔ひに任せて言はむとすなり
レアーケースと言ひ逃れせむとす曲者をとつ捕(つか)まへて皮剥ぎてやる
笑顔より伸びたる右手に花束を高くかかげて身の向きを変ふ
壮齢の夢
赤き靴の女人がごみとして置き去れり人頭(じんとう)入れしほどの袋を
あれは熊つぎが禿鷹はた狸 オートドアーを開きては来る
藍染の浴衣の裾より爪立つ見せて縁側(えん)のかまちに巣を覗き込む
生きてゐるにやあらむとは思へども折り返す電車に目覚めぬ一人
壮齢の夢といへども打ち砕かむとする者あらば吾闘はむ
海に注ぐ川を跨ぐと建造(つく)りゐる橋ありて虹の手前まで成る
駅頭にポケットティッシュ配られて拒みし若きの後に受け取る
エレクトロニクス化進む日本の白昼の庭を静淑(せいしゆく)に百足(むかで)が歩む
皓皓(かうかう)と光を反す悪徳のガラスのビルの主(ぬし)も捕はる
哀しみのガリバーなるに 公園の鳩は寄り来て雀は逃げる
かの日より片目達磨のままに置き焼かむ機会を待つべくなりぬ
髪白き男の胸にソバージュの髪の揺れつつうべなひてをり
血管注射の下手な看護婦 胸元に森下といふ名札つけゐる
ここが鼻 目 口などと言ひあひて傷に触れをり老いたる杉の
孤独といふは頒(わか)ちあひ得ず止り木に並び無言に酒くみかはす
この街角に三日と続きしことはなし見知らぬ八卦見(はつけみ)孤灯をかかぐ
この道は往き来のできる道なれば毎日まいにち往復をする
「ぢやあ、また。後から行きますから。」葬送(おく)る言葉に
新年の部屋に鉄瓶のたぎりゐて壮齢なりの優しさを強ふ
精巧な電子機械のバッタゐて今のところは時折故障す
政治家はあなたの税を無駄使ひ 納税パロディ私の勝ち
青年の挑戦は失せ 老人の達観を得ず 中途半端よ中年とふは
背に傷を負ひたる鳩の一羽ゐてすべからく他に一歩を遅る
託したる急ぎの仕事に反抗のきざしも見せずただはかどらず
建前と本音がひそかに交錯しとどのつまりが見え隠れする
父の会社が造りし橋と教へしとふに賄賂に汚れ錠(ぢやう)に鎖(さ)されり
ちよつと待つてよと繰り返す楽の音 残り少なし壮年の域
辻いくつおぼつかなくも決し来て混迷深くまた辻に立つ
鉄骨を高く組みゆく梁にゐてこの星滅ぼす手旗を振れり
手を引かれ辻堂に見し地獄絵図吾が後後を御(ぎよ)して止まざり
鳴きゐたる蛙のこゑのはたと止み時に遅れて人来(きた)るらし
願はくばどうぞどうか何とぞ切に 政治家よ頭をまだ下げ足らぬ
九十歳の死なりせば口口に大往生とか言ひ合ひてをり
花にならむと残れる力をふりしぼる蓄薇の蕾も露(つゆ)霜(じも)に遭(あ)ふ
光の束にくだりし水の砕け散り紅葉の峡に虹を渡らす
人となり猫となりたる偶然にそれぞれの位置に夕つ食(け)を食(は)む
ビルの中庭に石と化したる象や亀 星の廃墟は真昼間に来(こ)む
ベゴニアの花ある路地を乳母車押し来る老いの顔美しき
幹裂きにあひし柿の木枯れずとも壮年の傷は修復ならず
右の目で鴉は我を見てゐしが地を蹴り枝に声をあげたり
民衆をあざむき私腹こやしゐるは財狼(さいらう)の類・どぶ糸蚯蚓
「安らかに眠りゐるよ」と死者を言ひあどけなき昼寝の幼児にも言ふ
山の奥にまた山ありていくへにもわれの出口を緑は覆ふ
「ゆるめません心のブレーキ」 この頃走れなくなりました
夜の卓に一顆の柚子の置かれゐて揺るぎもあらぬ自信をもみす
老夫婦の家に演ずる娘役が金銭(かね)になるとて児(こ)を背負ひゆく
脱皮を終へて
お父さんは間違つてる 福祉学を学ぶ娘よりの手紙の書き出し
妻に似し息子 我に似し娘 そのことを現実として妻と共有(ともに)す
何言つてんのよお父さんは、二十万円もするのよ。妻の声響く
似るとふも時には哀し足の指に食ひ込みし母の爪を切りやる
むざむざと正月三日をからす飢う都会に土着の知恵の不覚に
和装せし二十歳(はたち)の娘あやふくも脱皮を終へて飛び去る気配
夢に来てもの言ふ妻は明るしと枕辺の灯を消すとき思ふ
必殺の目
あざむくといふにあらねど高飛車にくればこちらにも考へがある
今はまだ真実言へぬ刺し違ひも死んでしまへば何にもならぬ
俺はどうしてかうも馬鹿なのか逃げ足早き奴に遅れる
かさね来し歳(とし)の数なす重たさを疎まれはじめて職場去りゆく
風止みて世の底の見ゆと思へども策謀なすは非力なるらむ
傷つかぬやうに気遣ひ傷つけて遂に己も傷つきてをり
君の目はふしあなかと言はる 節穴ならば閉ぢられはせぬ
金脈も人脈も無く生きてきて不幸でありしといふわけでなし
燻(くすぶ)れる焚火に水をかけられしやうにやられてどうにもならぬ
転覆したるままに流るる笹舟の無援のさまを岸に見送る
混凝土(コンクリート)の都会の谷間を必殺の目をして人はいづこへいそぐ
早期退職優遇制度があるからと狙ひし者に説明をせり
造園の石据ゑてをり 異動とふ退職勧奨に退職(やめ)たる者が
上昇気流に乗り損(そこな)へる鳥もゐむ人間ばかりじやあ切なすぎるよ
杉の青葉に抑(おさ)へられゐたる火の意志も耐へて数分めらめらと燃ゆ
それぞれの異なる尺度にものを言ふそれがどうしたといふにあらねど
倒されても馬糞(まぐそ)のにほひ厭(いと)はずばむんずと摑み立ち上がりたる
とことん悲劇のヒーローになるまでとして落ち込みはじむ
初めから下手(したて)に出れば良いものを馬鹿めが今頃あやまりにくる
本流に組みせざるゆゑに覇(は)を得たるとふ例もあるとはいへど
丸くならむ丸くならむと思ひつつ反(そ)つくり返つてまた怪我をせり
自らを「ベルサッサ嬢」と憚(はばか)らず若きをみなは五時に退社す
百鳥(ももとり)のこゑ澄みわたる春の山だみ声高く鴉はわたる
矢面に立つも立たぬも自業自得にて手負ひの猪(しし)になる覚悟ある
譲りえぬ立場あるらし居酒屋に移りてもなほ熱き目に言ふ
円高のグラフをりをり見せながら暗に盲目の献身を強(し)ふ
悲しみの距離
生きながら身を削(そ)がれたる鯛一尾大皿にあり人喰(く)ふ顔に
生きゐてさへ忘れられゆく者もある 帰りの道に喪の荷が重い
妖艶の口にまつたけ噛みしめてその目至福の表情をせり
合力(がうりき)を無勢(ぶぜい)になすと火に入りて勇気の人は命をおとす
顕界(げんかい)にありて死するも幽界にありて生くるもあらざらむとや
葬式ごつこの死者の役とやおのづから命を断ちて大人おどろく
三月のオフィス街に降る雨は散乱したる夢殻ぬらす
切実に生を言ひつつ灯の下に輪の抜けやすき手の指を伸ぶ
谷川の細き流れに会ひしとき気象(きしやう)やさしく手を伸べて汲む
血の色を浴びてつぐなふごとき海かうべを垂れて密やかに凪ぐ
摑みたき幼子の指すりぬけて水はしたたかにおのれを保つ
天皇の死よりも悲しき飼ひ犬の死 心の距離にて人は悲しむ
舗装道路に砂利散乱す 不満といふはささやかな因
満開の桜花(あうくわ)を支へてゐる枝も古りたる幹も話題にならず
牡(お)ざかりの恋をささやくにやあらむ太声しげく鴉は鳴けり
*
冷静に転社の話をうけたまはる 梅雨に濡れ咲くあぢさゐの花
あとがき
この歌集は、私の第五歌集になる。昭和六十二年から平成六年まで、年齢的には、私が四十六歳から五十三歳までの作品、四三〇首を収録した。
作品の配列は、「年代順」になっているが、発表時の作品群はすべて解体し、各年ごとに「生活詠」「職場詠」「社会詠」に大別した上で、「あいうえお順」に再配置した。
この期間は、概ね東京勤務の時代である。私は、平成元年四月に埼玉県吹上町(現鴻巣市)の工場勤務から、東京・有楽町の本社へ転勤した。その時から、平成六年の六月末に、子会社へ転社するまでの期間ということになる。極めて多忙な期間ではあったが、まだ自分で仕事が出来た時期でもあった。
従って、この歌集とりわけ後半には職場詠が多い。昼間、中間管理職としての建前の世界に葛藤しながら、夜々、本音の部分を歌にした。身体を張って仕事をしていながら、一方では、上手に生きられない、無骨なサラリーマンである私が、そこに存在していたという事実が確認できて少し嬉しい思いがある。一方、平成二年のある朝、私は、熊谷駅の二階新幹線ホームの最前列に並んでいた時、入線直前に失神して倒れた。手をついた跡はなく顔面が傷だらけになった。救急車で病院へ運ばれて、二週間入院した。診断は、心房細動だつた。また、平成四年、長野県の浅間温泉の宿でも強烈な目眩に襲われて、松本市内の診療所へ車で運ばれた。その他にも上野駅地下四階の新幹線ホームなど、この頃は何回も目眩や不整脈で身を崩したりした。
短歌は、「一首独立の詩型である」という。本集において、発表時の作品群を解体して「あいうえお順」に再配置したのは、蛮勇を奮ってのその実験的な試みである。一首一首が立っていられなければ抹殺されるまでだ、という覚悟がある。
また、本集では、徹底的に「私」であろうとした。普遍的ではなく私的であろうとした。第三者の眼ではなく、あくまで金子貞雄の目であろうとした。弱い人間の強がりや愚痴、泣き言、つぶやきや独り言、中間管理職である一人のサラリーマンである私の生き様をすべてそのまま曝け出した。歌は慰みの雫であり、力強い心の友であった。
この歌集は、平成八年には出版社へ渡すまでに準備が完了し、信州の陶芸作家宮沢菊男氏の高弟である赤穂千恵子さんから表紙用の写真も戴いていた。また、平成十三年にも出版しようと再度準備を整え、稲葉京子さんから帯文も頂戴していた。しかし、そのたびに私の身に大事があって中断してきた。お二方には本当に申し訳ないことをしたと思っている。ここに記してお詫びし、お許しを願う次第である。
このたび大野誠夫歌碑建立事業や「作風」創刊六十周年記念事業などの一連の事業も無事完了したのを機に、歌集を刊行しようと強く思うようになった。
歌集名は、
底抜けに明るき空のひもす鳥
熱鬧(ねつたう)の街を見くだして行く
より採った。「熱鬧」は、「人ごみの騒がしさ」を言うが、加えて「熱闘」にも通じる言葉であり、東京勤務の記念とした。
本歌集の出版にあたり、大変お世話になりました短歌新聞社の皆様に感謝申し上げます。
平成十八年十月
金 子 貞 雄
第六歌集『聲明(しやうみやう)の森』
時の隙間 H7・1
日常に隙間のやうな魔の時の見えざるありて吾を悩ます
一杯茶は縁起悪しと言ひながら友引き留むる母を見てゐる
残骸の都市 H7・1
平成七年一月十七日五時四十六分阪神淡路大震災記憶しておく
御手の向き神あやまてり果て知れず都市残骸となりて煙れる
都市いくつ焼け野原なる霜の朝地の果てひくく朝日子のぼる
生きてゐたことのみひたすら喜びて涙に互ひの肩いだきあふ
焼け跡の瓦礫踏みつつ子供らのチャンバラごつこ焦(こ)げし棒振る
闇の眼―母の癌 H7・8
母の余命半年などと事も無げに闇の眼をして医師は言ふなり
秋の夜のこほろぎのこゑ末期癌と知らざる母は楽しむらしも
秋の夜の星の空より管(くだ)垂れて臥(こや)れる母の腕に繋がる
止まりたる時を抱ける老い母に五十回目の敗戦記念日
煤けたる柱の時計衰へてほああんふああんと闇にむせびぬ
病院に母の病みをり夜半過ぎて兎の哀しき鳴きごゑに覚む
男の強さ備へし母の臓腑なりことごとく癌に蝕まれしとぞ
日頃より口数少なき母なりき病みてそれこそ口無きごとし
しんじんとは鳴くなり父の遺骨受けしかの日の鳴き止まず
手術さへ最早かなはず母は長く堪(こら)へてゐしや気づかざりしよ
病みてより使はざる母の入れ歯あり血の気薄れし色に乾けり
日を孕む樟の嫩葉を見上げゐるふたまはりほど痩せたり母の
母は病名を問ふ事もせず堪へゐるあたりさはりのなき話題にて
柿の木の下の庭辺に鶏の羽毟りゐき後家の太腕に
軽口の医師―吾の癌 H7・12
悪性腫瘍わが胃にありと軽口(かるくち)の医師にこやかに吾に告知(つぐ)なり
入院手術の書類手続きの話など聞きゐつつもこゑ遠ざかりゆく
夜の闇しらじらとして人知れず降りくる雪の数かぎりなき
いつの間に冥(みやう)罰(ばつ)くだりゐたりしや噴き上げの水はたと止みたり
虚(うろ)はうつろ有漏(うろ)は煩悩迂路(うろ)回り道ただうろうろと行くあてもなし
枯れ野焼く野火の炎が赤あかと赤城颪に吹かれ迫り来
酒・煙草飲み放題の丈夫(ますらを)と他人(ひと)様も言ひ吾(あ)も誇りきし
母と吾と馬鍬(まんぐわ)振りたる麦畑芽生えてゐたり悪しき細胞
空白の日々 H8・1
共有せる時間の闇にゐる者と寝息通へば吾も眠りぬ
病む吾の身を案じつつ外国(とつくに)へ旅立つ息子をゴルフに誘ふ
仕事などさて置き身の癌撃つべしと癌と闘へる先輩の言(げん)
これから先五年分の年会費支払ひて来てすがしくをりぬ
貴乃花の九戦全勝を観とどけて明日の入院に思ひはもどる
隙間なく未来を縛られゐたりしが病みてたちまち空白の日々
大声にわれ叫べども誰も彼もが背を向けて去る夢にまで病む
首洗ふときふと手に触れし福耳と言はれたるほどの吾の耳たぶ
親子入院 H8・1
戦死者を夫(つま)とせし母 父とせし吾 更更(さらさら)に癌と闘ふ
この先は神のみぞ知る峠道吾には告知し母に秘すなり
手術待つ吾と最早手術さへかなはざる母とが病廊に遇ふ
カーテンにて仕切られし病室の窒息しさうな安らぎに居る
母の余命われの余命を思ひつつ目を見開きて闇を見てをり
病院の大部屋狭くひとり退きひとり入りきてひとひが終る
手術後二人 待ちゐる四人 同室の誰もが平常心をよそほふ
夜の闇を密やかにきし雪の精はともし消したる窓を明(あ)かくす
癌と向き合ふ H8・1
沈黙の待合室に一匹の蚊があらはれて会話始まる
思ひ立ち誰彼の名記せしを妻に託して覚悟をぞ決む
繰り返し襲へる思ひメビウスの帯のごとくに躁鬱の日日
微笑みの医師たちまちに恐ろしき悪魔の顔のひらひらの舌
急速に近づきて来し死とふもの朝日子まぶしく病室に見る
全身麻酔を待てる時の間死に臨む心得なども思ひつつをり
医師と言へども思ひ悩みし果てならむ胃全摘といふひとつ決断
複式呼吸・横臥(わうぐわ)のうがひ・ネブライザー繰り返しつつ手術日迫る
覚 悟 H8・1
「手術後三年生存率」要らざる知識も得てしまひたる
ストレッチャーに仰向く吾を覗き込む母の目にまた親の目に
手術を前に恬(てん)然(ぜん)ぶると妻をしてわが小心を見透かされをり
末期癌と知らざる母が手術せる吾励ますと作り笑ひす
天上の灯の明るきが朦朧となりてたちまち空白の時
手術前に見し電線の鴉をらざりと麻酔より醒め窓を見てゐる
麻酔より覚めし意識に生きてゐることを喜ぶ者の目に合ふ
覚醒後のベッドの側に妻がゐてずしりと重き視線にあひぬ
スパゲティ症候群 H8・1
手術後の吾を見舞ふと来たる母のなにか堪ふる目を見上げゐつ
七筋八筋の管に命をしばらるるベッドに鴉のこゑの聞こえ来
吾を見舞ひに来たる熟女は妻とのみ雑談をしてもう帰りたり
見舞客一人二人と去りゆきてふたたび病人のわれに戻りし
夕焼けの小径を鴉と帰れとて呪文のやうに子らをいざなふ
種(しゆ)をめぐり激しくあらそふ魚らの牡の世界を映像は追ふ
嬉しきは冬日くまなき柿の木にかけ登りたる子猫の高さ
恐る恐る一滴の水舌に受け舌にころがし飲みくだしたる
密約 H8・1
病院の庭の雀をながめつつ粥一匙をひたすらに噛む
兄いもうと先競ひつつ登校する春を縁どる病院の窓
罪ふかきヒト科ヒト属 音の星光の星とし星を占拠す
地平線を離るるときに朝日子が奮ひ立つさまに耀き乱る
見下ろせば国旗をかかぐ一軒の家あり一は異端めくなり
お見舞ひに来たる幼と退院後の密約もしておのれ励ます
星の夜を屋上に登りて来たりしが人をり人に話しかけらる
「のね」といふ語尾を自在に使ひわけ女は本意を優しくも強ふ
雪まみれ H8・1
身の雪をずり落としても雪まみれ椿道化師赤鼻に笑む
静寂の谷間に生ふる杉の木は溜息のごと雪振り落とす
冬の日をあびつつ雀は庭にゐて夢の燃え殻を啄ばみてをり
春を盛(も)り夏もり秋の花をもる籠ありて花の部屋に癒えゆく
吾の癒ゆる日を待ちわぶる母の目に雲の吐息の雪の花舞ふ
天空よりたゆたひながら風花はたつぷり時のあるごとく来る
スイトピーの薄紫が好きといひ日毎かよひてわれを看まもる
一口ほどの物にも幾たび痞(つか)へつつ胃の腑あらざるわが身とぞ知る
男坂 H8・1
振り向けば女坂なり真向かへば男坂なる六十路への道
南無阿弥陀仏母は心に深く秘め喜怒哀楽を晒さうとせず
右中間に打ちにしものを一塁の手前でころぶわが草野球
案件のリスク・メリット絡みつつ容赦もあらず決断(けつ)を迫らる
仕事の首尾を思ふ意識の静まらずラジオ聞きつつ深夜におよぶ
倒れたる吾をささへむとして倒れたる妻の寝息の少し荒れをり
一人とて行きて戻りし人の無き良き世ならむに逝きしぶるなり
凍(い)て土に突き立ちサフランの花咲きて夢を食ひつつ五十代なかば
風のこゑ H8・2
病院に命継ぎつつ夢の中に柱時計のねぢを巻きをり
六匹の毛物のごとく馴らされてベッドの上に朝食を待つ
幾とせの苦しみ越えて得し勝利に娘は涙に頬をぬらせり
氷張る道の傷みを避けながら老いし尼僧はしなやかに来る
つる草の枯れて秘めたる幾つぶの朱実を知りて雀言ひよる
たそがれの神社の鳥居に面伏せて数(かぞ)へしわれの鬼はいづこぞ
自らに聴かせむとしてへうへうとオカリナを吹く少年のをり
ひゆるひゆると木木に削がるる風のこゑ夜の病室に忍び聞こえ来
母の子 H8・2
病院を戦場として母と吾は癌と闘ふを目に誓ひたり
病む母が患ふ吾の身を案ず母の子なれば今も母の子
三日目の牡丹の花の顔をして母は朝(あした)の庭の辺に立つ
手術後の吾を気づかふ母も病み春のつららは涙にもろし
癌と言へども死の病にはあらざると己励まし独り夜を堪ふ
胆管にインサート手術なすべきや母の余命を計りつつをり
「せがれが元気になりました」と挨拶してゐるおふくろの声
もはや余命少なき母が吾に「術後なり階段に気をつけろ」と言ふ
雪花菜 H8・3
平行し走る隣りの道を行く友がまぶしく輝きて見ゆ
掬ひたる箸の雪花菜(きらず)を待ち受ける左手のひらのごとき存在
春の雀に光あまねし 与へられし時間もつとも公平ならず
オレンジの皮の厚きを剥くときの女の爪の切れあぢを知る
寝つかれず深夜におよび読み終へし「和尚さんの睡眠健康法」
ミディアムレアのヒレ肉ステーキ平らげし紅(べに)の唇(くち)より店を出でゆく
菜の花の揺らぎのやうな微笑みにわが意にそはぬこと勧めらる
昼寝より覚めたる猫はながながと身を伸べてのち歩み初(そ)めたる
妄 語 H8・3
決断は断念を強ふ傷痛む腹部にきつく晒木綿巻く
人を葬りごみを受け入れ核しまふ墓場ばかりの水の惑屋
もう・未だの分かれの齢か近頃は朝を迎へに起き出づるなり
おのが身を奮ひたたすと口ずさむ軍歌なりしがけ寒くなりぬ
われは吾が父を知らざり晴れた日は梯子を架けて徒長枝を剪る
ストローにて野菜ジュースを飲みほせり吾に少しく妄語(まうご)ゆるせよ
しやぼん玉に小さき虹の生(あ)れたるとお巡りさんと見てゐたるなり
元気さうじやないかと言はれしに見舞客去るまでは元気でをりぬ
母の余命 H8・3
「女手ひとつで」誰彼が母を言ふときいくたびも聞く
一枚一枚皮をはぎつつ伸びてゆく今年の竹を母と見てゐる
上(のぼ)るとも下(くだ)るともなく魚かげの瀞に游ぶを立ちて見飽かず
いくたびも脱出せむと試みしが走りても走りても母の掌(て)の内
母の余命とふを過ぎたり妻を連れ映画「スーパーの女」観に来し
病むとは言へど母が農業で鍛へたる五臓六腑を医師は知らざる
足し算をしてゐる時に浮かび来し引き算の如き模糊としたもの
第三コーナー過ぎて抜かれし悔しさがわが日常を占めて離れず
夢の逃げ足 H8・3
紳士にもおほかみ男にもなれず月の光に濡れつつ帰る
冬の気も春の気もゐてゆづらざるあらそひ続く弥生三月
花は人を奮ひ立たせて悪戯に梯子をはづすごとく逃げゆく
西へ行く鴉鳴きつつなひ交ずるきのふの失望あしたの希望
冬の日の弱き光をあびながらサラリーマンが斜(しや)に構へ立つ
油の切れし男の前に歯車の磨り減りし綿繰り車展示されゐる
もう充分いやもう少し繰り返し繰り返しつつふたり酔ひゆく
茶の湯気は灯に燦(さん)として消えゆけり夢の逃げ足いかにも速し
哄 堂 H8・3
朝に覚め夕べに寝ぬる日々なるも安穏ならず雀らのこゑ
晴れながらもの狂ほしき風の日を竹竿売りのこゑ透りくる
麦畑にめぐみの雨の降りてをり感動連ねて生きたかりしも
家並(いへなみ)の上に冬の日昇り来るこの手を伸べれば掴めるやうに
目を開けてまた閉ぢてみる不快感術後の眩暈(めまひ)なほらず三日
水便の来る日も来る日も止まらずと言へば哀しき妻の目にあふ
五十歳を四あまり越えてくだる道背伸びせずとも沈む日の見ゆ
見舞ひの客のふともらしたるおどけ話に病室たちまち哄堂(こうだう)と化す
花の掌 H8・4
望月の今宵の宴を見上げつつ唄へるわれの糸繰り車
巷間を飛び来て妻の疲れしや展翅の蝶となりて眠れる
振り向けば咲かざる夢の花いくつ冬の薔薇(さうび)の霜枯れの園
ひとつづつ夢を喰らひて老いし母にさても見事な今年の桜
丸木橋渡れる時に抱(だ)き抱(かか)へ抱き抱へられつつ此岸に立てり
大いなる時空の花の掌のうちに生かされてゐて花をめづるも
生きてゐるうちに孝をと思へども生きてゐるゆゑ甘ゆるばかり
農地改良を記せる石碑の苔むして強き吹き降りの雨に濡れゐる
無傷の明日 H8・4
遠き未来と思ひゐたりし約束の時の至れり雨の降り出づ
よどみなく胃摘出の日を答ふわが誕生日を言へるごとくに
昔むかしの青春の日々の嵩ほどの薄くれなゐの八重桜咲く
利根川の春の流れは立ち上がり真剣勝負をいどみてきたる
席とり役の中年二人は待ちがてに花の下にて飲みはじめたり
胃の無きを時に忘れて食ひたるをやさしく妻に叱られてをり
バンダナをつけて娘が立ち上がり無傷の明日を引き寄せてをり
くじ運の弱き御婦人に当選(あた)りしがはづれのごとき痴呆はきたる
春の葉書 H8・4
青麦の甘く香れる草の道に娘あかるく人の名を呼ぶ
桜の実色づきたりと全快に向かへる吾は臥す母に言ふ
鮮明に記憶に残る夢ありて覚めたるうつつ幻のごと
届きたる春の葉書は表へとひつくり返してその続き読む
昼火事の火も静まりて消防車腑抜けのごとく帰りてゆけり
箸の先に着きて残りしひと筋のちりめんじやこの目玉が光る
緊張の中にゐつつもその次を案じしときより負けにかたむく
真夜中のとばり切り裂き稲妻は夜も咲きゐるリラを照らせり
鴉を追ふ H8・5
胆汁の体外排出管に触れ母の溜め息火失のごとしも
出征の父の帰りを待つ母は新聞さへも裸眼に読めり
庭に立つ櫛風沐雨(しつぷうもくう)の母の白髪(かみ)の透明感が生気を強む
夫(つま)の身を海に棲まはせ生くる母は愚痴も感謝も海に語れり
余命のことを母は知らざり体調の良き日の母は朝鴉追ふ
眠れざると泣くがの声に弱々しく母のうたへる女童(めわらは)の歌
狭量を挑発しつつ顔の辺をいつぴきの蝿がしつこく飛べる
嫁を呼ばむと家のベッドに鈴を振る母は興奮の中に振りゐる
霜降月 H8・11
病室にて腹の傷あと見せあへる見舞ひの客も加はり三人
飯坂(いひざか)の愛宕の山のもみぢ葉はくがねしろがねに湯の街に降る
一陣の風に残りしもみぢ葉の二陣にも耐へ今し散りたる
土も無ききりぎし高く這ひのぼる蔦の力に身のふるひ立つ
川砂に立ちて見上ぐるわれの身も紅葉も雨に濡れはじめたり
天を指し生くる老樹と絡む蔦のせめぎのさまを冬日晒せり
旅の宿の昨夜ひときは目立ちゐたる一人と職場の片隅に会ふ
霜降月の野にひそやかに咲くヤツデ小さき蜂の来て留まりたり
沈鬱の日々 H8・11
中天に母は竹竿あやつりてぬくもり残る柿の実を採る
吾よりも遅れて癌を手術せし一人の逝きて野辺に見送る
風あれば風に揺れゐるもみぢ葉の我執(がしふ)に遠く日に輝けり
山里はもみぢのなかに柿の実の遠く夢見るころとなりたる
谷深く舞ひ散る紅葉を見つつ湯に現(うつつ)のひとつことに囚はる
対岸は色鮮やかにもみぢせり意志とふわれを苦しめるもの
もどかしく電話のダイヤル回しつつ戻り来る8を指に待つなり
冷えまさる流れの底辺に生きむとす魚(うを)の泳ぎをみれば意の湧く
高 嶺 H8・12
連れ立ちて登り終へたるこの峰に続く高嶺(かうれい)への細き道筋
裏山はもみぢ青葉を織り交ぜて過ちといふ荷を背負ひ生く
箸の先にて少しく運びたる飯を歯触りの無くなるまでも噛む
ごつごつと悪性腫瘍に憑かれたる中年の松も木枯らしに耐ふ
舗装路を難無く来たりて土の道の小さき石につまづきてをり
かの日より生きて戦ひ来し母が 今 黙禱のさまに癌と闘ふ
一人つて寂しいだらうね針の手を止めてぽつりと妻の言ひたる
眩(まぶ)しかる嘘もとりまぜそれぞれに家庭といふは成り立ちてゐむ
黒猩猩 H9・1
天の鈴地の笛心の琴鳴らし玲瓏として朝日子のぼる
心弱きこと言ひつつも密やかに術後一年を越えし朝明け
左手に持ちてバナナを食らふさま黒猩猩もわれも右きき
のぼり来る朝日子見ればおのづから仏を拝すさまに祈れり
ガンといふ岩うち砕く言葉にも似たる言葉を吐き出してみる
言葉尻に生えたる葦に移り来しとろ火に暫し焼かれてみむか
墨絵のごとき曖昧模糊の霧の朝は他人も自分も許したくなる
病むわれを心配しつつも外つ国へ発つ子の挨拶「ぢやあ」と短し
嬬蛾の森枯る H9・2
行きなづむ馬車なれば引き戻さむか黄泉路も穢土も苦しみに満つ
これの世の終(つひ)のあたりを往き来するおふくろ看つつ己はげます
戦後に耐へ今なほ耐へて最期まで助けを求むることなし母は
幾つもの時代を覚めて生きて来しおふくろは今眠らんとすも
だうだうとなだれ来る時代を受け止めて滝壷は水を川へ導く
大戦に夫を亡くせしおふくろの今際(いまは)に涙ひとしづく垂る
霜柱に日の差し透りことさらに死を遠ざけて考へて来し
戦死せし父の分まで生きて欲しきに母の望月天に歪めり
孀娥逝く H9・2
刻々と意識の薄れゆく母と時を競ひて子は帰国途次
口結び愛しき孫の着くまでを母は残りの力に踏ん張る
土色に染まりし母の手を握り呼び戻さむと声を張りあぐ
刻一刻と減りゆくものにあらがひて入れ歯はづせし口喰ひ縛る
アメリカより駆けつけし孫の手に触れて顔に微かな表情を見す
おーいおーいとこの世の声に人は呼び呼ばれつつ母は闇の世へ行く
外国より駆けつけ来たる孫の声にしかとうなづき祖母(おほはは)を閉づ
息絶えし母の額(ひたひ)に愛されし息子の涙ひとしづく落つ
陛下に召さる H9・2
静謐(せいひつ)な宇宙の底に横たはる母に残れる命をさする
楽しかつた事? ねえなあ 今際(いまは)の母の手を握り締む
明治より生ききたりしがわが母には陛下と言へばすなはち昭和
行くべえよ早く行くべえ今際なる母は陛下に呼ばれしといふ
遅ればせながらも母はいそいそと天皇陛下に召され逝きたる
わが母の名前は「とみ代」戦争の御代(みよ)生ききりし貧しく強く
「早く早く」と口癖の母逝きにけり白梅の花夜を眠らず
遺されし母の歳月堪へ来し命のきはのまなこに溢る
千羽鶴 H9・2
声を低めし医師のひと言 一瞬に空気は壁のごとく固まる
夢ひとつ哀しみふたつ折り込みし母の千羽の鶴も飛び立つ
渓の水のた走ることの途絶(たえ)ずして八十五年海にやすらぐ
生きるとは淋しさに堪(た)ふる事ならむ独りに堪へて母生き切りし
深更の空に浮き出でし一樹ありて根元の闇までこらへて来たり
霜柱踏めば音する音すれば更に哀しき知りつつも踏む
妻はつま子供はこども吾はわれずれて哀しみの距離を保てる
人の死を認めむとする哀しみを惣菜パックのやうに詰めをく
銅鑼の音 H9・2
柩へと六人の男らにより移さるる母のこの世の最期の重さ
「八十五歳ならお祝ひだ」とおふくろの死をひと様は言ふ
幼子を荷台に乗せし自転車と吾が乗る霊柩車がすれ違ひたり
大輪の造花をつぎつぎ担ぎ来て手際よし死をあきなふ人ら
戦死したる父を追ひかけ今に発つ母を励まし銅鑼鳴りはじむ
辻ごとに鉦打ち銅鑼を鳴らしゆく葬列今し石橋渡る
黄泉路へと続ける穢土の草の道白梅富妙大姉葬送の列
母の中に生きつづけゐし若き父の出迎へあらむ孀娥の母を
あかぎれ H9・2
終戦となりてあらたに始まりき未亡人とふ母の戦ひ
一本の線香に火を移すとき写真の母の視線に会ひぬ
おふくろの遺影に向けば何なくに己を怒る心を覚ゆ
未亡人の母が苦しみ背負ひつつ命を賭(と)して護り来しもの
語り部を拒みし母は結びたる唇に力を込めしまま逝く
煩雑の連なりし吾の日常に隙間をあけて母は逝きたり
あかぎれに割れたる指に膏薬を焼き込め朝の闇に桑刈る
かたくなに口を結びて綴り来し母は三万余日の日乗を閉づ
もんぺ H9・2
心うちに思ひゐたりし言葉あり命ある間に言ひたかりしに
今は亡き母の水仙に花咲きてこの世のわれの足もと照らす
穢土離(さか)り星になりたる母は見む人らのすまふ美(は)しき灯(ひ)の星
朝作りに昼は昼にて夜(よ)は夜なべ子供ながらも母を見てゐし
わが母をこともあらうにをかしたる癌腫を強く憎みたれども
米麦の間(あひ)の手に春 夏 秋蚕(ご) 晩秋蚕(さん) 命を賭(と)して命繋げり
しんしんと霜ふるやうな冬の日をあびつつもんぺの母が焚火す
垂乳根の母が吊りたる破(や)れ蚊帳に蚊に刺されつつ幾夜をゐ寝つ
男となりし H9・2
臨終の母を呼びたる大声にてわれの呼ばれて早暁に覚む
母が逝き吾が遺りし正順に不可思議ならずとは思へども
前世は鶏(とり)とねずみの妻と娘がスーパーの買ひ物袋持ちあふ
鬼遣(や)らひの豆をまくなり役ひとつ残りゐて吾は少しく家主(あるじ)
幼き日わが父と代(な)り男(を)となりし母の強さをまつぶさに見し
五十年余の時を隔てて唐櫃(からうど)の父の隣りに母を並べぬ
ある日ふと晩秋蚕(さん)までやらむかと母が言ひたり貧しさゆゑに
母逝きて間なく逝きたる猫の「地球(テラ)」日常長く母とすごせり
黒染めの桜 H9・3
わた飴を手につかみたる嬰児はいたづら目見(まみ)を母親に向く
吾の目には墨染めに咲く桜花けぶりて天のま洞におよぶ
物陰にひそやかにして咲き満つる花やぶ椿の赤き十(と)あまり
花の季節にふたたび巡り会ひ得しを恐れの中の喜びとせむ
うたかたのこの世を優しき風の吹き道行く者に花蜜降らす
花の下に浮かるる者らをいましめて嘴太鴉ふたこゑに鳴く
泣きながら人は生まれ来 ゆつくりと桜花の下を妊婦は歩む
季節とならば花待ちがてに人らつどひ花にも優(まさ)り顔ほころばす
春 宵 H9・4
白鳥の背(せな)に二人を待つごときボート浮かぶる春の湖
池の面に波紋を残し沈みたる石の孤独のやうな春宵
取り乱す青年の木も動じざる老年の樹も山とし吹かる
投げ入れしものの波紋に重ねゐる自らをなほ唾棄する心
廃れたる屋敷の山も春に萌ゆ 気を遣ひつつほとほと疲る
市庁舎前のけやき並木に夜夜を追ひ詰められしむくどりが群る
里山にたはむるる二羽の子雀らみやますみれの花を散らしぬ
咲く花を散らさざるほどの細き雨日本の要人の一人自死せり
海 幸 H9・5
里を吹く風も凪ぎたる宵空に人の滅びし後の蝙蝠
海辺より山巓(さんてん)までも家背負ひ三浦半島初夏のかがやき
海の辺にせまり険しき一山を墓所に拓きて天に至れり
舟盛りの海処(うみが)の幸(さち)と娘子(むすめご)を前にし妻とかしこまりをり
不器用にもお酌しくれし娘子と海辺の宿に波音を聞く
五月晴れの東京湾ののどぼとけ三浦半島にそらまめ太る
一期一会幾度重ねて今のありポピーの園に被写体となる
望月のおぼろにかすむ春の宵冷凍コロッケの解凍を終ふ
緑 風 H9・5
天空に松韻(しようゐん)高き夏の日も深山(みやま)すみれの花の静けし
陽に透ける樟の嫩葉の艶(なまめき)に心ゆるみてさはに発語す
山腹に寄生せるあまた別荘のいづれともなく犬の声すも
吊り橋を渡り来たれる鋭(と)き風に色めき立てり新緑の木木
新緑の森が優しく囃しゐるかごめかごめの中なるをさな
業風(ごふふう)の絶えざる心に聞こえ来し澄み通りたるおほるりの声
美しく加齢をせむと思ひつつくちびるに熱き茶をすすりゐる
かごめかごめ魔に閉ぢられし輪の中の鬼がナイフを翳し襲へり
風の消印 H9・6
享年五十六歳 眠りたる齢(よはひ)を記す石を見て過ぐ
花首を刈りゐるときに幼らは集団下校の列乱しつつ来る
海なぎさ波にそひたる足跡のここに途切れて巻貝の殻
新しく建ちしが客の無きホテル螢火ひとつ風に流れ来
学校とふ囲ひの中に事件起き加害者といふ被害者も生む
顔の無き都会の日々に疲れしと風の消印押されたる手紙(ふみ)
風と遊ぶ子ら公園にゐたりしが凪(な)ぎしゆふべのつくつくぼふし
女ひとり箱に隠せしマジックの鳩が出で来と見れば出でたり
スクランブル交差点 H9・6
鬱病(うつや)みの男の意気地なきがごと深く頭(かうべ)を垂るる向日葵
無秩序のやうに交差点を行き交へり人に新しき秩序の形
一人逝きそを慕ひゐし者ら逝き死は風媒のごとく連なる
夏の日に竿にかがやく白き衣うつつにあらぬまぶしさ覚ゆ
科学とふ欲望のゴミあしたには暴徒となりて人を逆襲(おそ)はむ
核のゴミ生活のゴミに苦しめる四十六億歳になりたる地球
マンションの北面に暗くせり出でて非常階段雨に濡れゐる
五億トンのゴミをめぐりて争ひの絶えざる日本エゴの花咲く
未 未 H9・7
ここはひとつ力を抜きてと思ひつつも鉛直に立つ夏の雷雲
生後間なくわが家に来し猫の子のまづは初めにわが指を噛む
地球(テラ)を亡くして寂しからむと戴きし子猫に子らは未未(ミミ)と名づけり
猫の子にその名教へむと妻とわれ幾たびも呼びわが家明るし
合歓(ねむ)の木に花咲き出でて思ひ出は脈絡もなくそして途切れず
にはほこり生ふるあたりに無造作な死の形あり夏過ぎむとす
妻と子猫たまさかこの世の舞台にて睦月の炬燵に居眠りてをり
新大阪十五時五十七分発東京行ひかり乗車 結果を人は運命といふ
聲明の森 H9・8
夏森の径に明るき木洩れ日を風にさゆらぐ葉の影が掃く
思ひ出となりたる孀娥(さうが)の森に唄ふの聲明(しやうみやう)に立ち止まりたり
合同の供養をなすと本堂に三家族ら寄り住職を待つ
亡き母の志にて調へしと新しき袈裟着て供養いただく
かにかくに母との隔てありしまま盆の読経のこゑにつつまる
墓石(はかいし)を清めると来し息子よりも時間をかけて吾は拭へる
新盆の読経聞きつつ向き合へる吾寄り行けば母も寄り来る
夏の夜の漆黒の闇低くして星それぞれに空を彩る
熱湯の谷 H9・8
われに来し螢の光の耿かうと際だつほどの古里の闇
八月の賽の河原の露天風呂たぎる心を忘れむとせし
ぐらぐらと夏の日のさす露天風呂今の無謀を好む心に
身に降れる日光(ひかげ)するどき湯の街に妻を心の杖として来し
山深く熱河の谷を堰き止めし露天の風呂にわが身を浴す
地を裂きて噴(ふ)き出づる熱き湯の辺り緑ゆたけき杉苔の生(お)ふ
夏の陽を浴びつつ露天の湯の池に足をつけつつ話は尽きず
交はりを様々に断つ「さやうなら」ひとつ残して人々は逝く
百彩の音 H9・8
リヤカーに百彩の音を乗せて来る風鈴売りも無言の暑さ
南国の神の力を宿したる鮮黄色(うこん)のバナナを日々に糧(かて)とす
バナナ二本を常の命の糧として吾天命に逸(そ)れ生き来たる
妻とわれ話に花を咲かせつつふとも寂しきひとりとひとり
アメリカに住める息子が深夜来てパソコン画面に未来を語る
アーケードには春の造花もそのままに人影まばらな立秋の街
日に五たび六たびと分けて食事摂る美しき終(つひ)を夢に描きて
ハルシオン錠を呑みて身を置く夜の闇眠れぬことのこの頃多し
星合ひの空 H9・7
夏空を不安の心にま探れるやうなキウイの蔓の先端
使はれし歳月の色艶やかな三尺あまりの竹の物差し
物差しの目盛りも薄れ生涯を使ひ古して人の逝きたり
街角に性をあきなふ歓楽のネオンに染まり赤き雨降る
人が去り鼠も去りて廃屋となりたる庭に猫らたむろす
遠望する山の赤松枯れ果てて地球の涙のごとき雨降る
この年の夏ことさらにさみしくて星合ひの空茫茫とせり
この夏は稲田に麦藁帽子無く思ひ出の風吹きわたりをり
黄金の鮎 H9・8
尾鰭振り鮎は繁吹(しぶき)を放ちしに串刺す者は目をつむりたり
生きながら竹串に突き刺されゐる若鮎の目に息を止めたり
生簀(いけす)より掬ひあげたる鮎の顔目に選り悪しきを水に戻せり
炭の火に灸らるる鮎二度三度もがきてゐしが動かずなりぬ
竹串に刺されし鮎の身のしづくに炭火ひときは燃えあがりたり
炭の火の周りに鮎ら焼かれゐてその身黄金(こがね)の色と輝く
焼き鮎は黄金の身に萩の花添へられ平らな小皿に盛らる
水色の和服のをみな焼き鮎を手に取りやをら白き歯に噛む
時 殻 H9・9
いくそたび妻とも激しく責め合ひし頃あり貧しさを抜け出でし頃
五十六歳とふ時を食ひ夢を食ひつつ築きたる時殻山の中腹に立つ
たらちねの母をたとへば言ひ負かし得たとてなんの愉快ありしか
母の庭の薔薇の花切る薔薇よりもわが身濡れつつ亡き母に切る
朝なさな茗荷を採ればこの夏はわが役として妻は採らざり
よどみたる朝の空気を切り裂きて時を動かすこゑに鳴く
幼き日に母と激しく争ひき 基(もとゐ)に貼り付くやうな貧しさ
陛下より父の賜ひし勲章を飾りて母の寝起きせし部屋
城 H9・9
城内の死の闇背負ひ矢狭間(やざま)より攻め来る敵と吾は真向かふ
籠城せる闇の小部屋の武者溜り長子もをらば安からざらむ
戦国の絵巻に見たる職ひとつ火縄銃(ひなは)に弾丸(たま)を込むるもののふ
城内の闇を打ち抜く矢狭間辺に聞えてゐたり の鳴くこゑ
外堀を囲むあまたの武家屋敷 社宅のごとしもはや流行(はや)らず
天守より見下ろす時に登り来る者らけ落とす策をめぐらす
城内に攻め込まれたるときの抵抗を想定したる狭き階段(きざはし)
戦国の世の人々の日常に隣る死のあり死の覚悟あり
秋を封切る H9・9
この街には地下水道の流れゐてわが夢殻も遠くへ運ぶ
月光(つきかげ)のにはかに曇り目の前の一人たちまち見知らざる人
陥穽のごとき時の魔 まばたきて稲の花咲くうつつに戻る
時の背に夢見てゐたる夏の日々すぎて冷たき風の季となる
公園にをさなご一人遊びをり こずゑにはしぶと鴉飛来す
あきつらは明るき日光(ひかげ)身にあびて秋を封切るごとくあらはる
庭の辺の焚き火の中にわくら葉や夢殻もありほむら立ちたり
葉の裏に夢の脱け殻を置き去りしつくつく法師の声も絶えたり
蓮 華 H9・10
雲を突くポプラの梢 若かりし頃の希望も野望となれり
柿の実を地上に受くと立つ妻は蓮華のごとく十指を開く
喧嘩する楽しみも減り食卓の斜(はす)向かひなる妻と食事す
壮齢を過ぎ高枝に登りたり 湧き来し思ひに心は震ふ
世紀末の記憶の底に消え残る悪魔の暈(かさ)が国覆ひたり
険悪とふ闇の隧道を逸(そ)れて来しけはしき小道に姫女苑咲く
青春の高処にありて難(かた)かりき柘榴もこころを許す季となり
枯れながら枝を離れぬ紫陽花の花毬ひとつ剪りおとしたり
走り星 H9・12
一つ二つと数へ言葉に付ける「つ」のいかなる出会ひの後の姿や
大き島も小さき島もそれぞれに巌は背負へる松を枯らさず
名を忘れ古きドラマの役柄にて女優を言へば妻が笑へり
花も実も燃えし季節(とき)すぎ柘榴木も刺の鋭く凩(かぜ)を切り裂く
息ひそめ赤城颪をやりすごすタンポポロゼット道の彩り
言ひたきこと母は言ひしや言ひたきこと吾は言ひしに
冬の世に逝きて自然の胎内へ急げるごとしかの走り星
沼に浮く枯れ木の鴨ら悠久の時の流れの縁(ふち)に眠れり
あとがき
この歌集は、『熱鬧(ねつたう)の街』に続く私の第六歌集です。
母と私と癌との二年余りの日乗です。
第一歌集『孀娥(さうが)の森』の追悼集です。
余命半年。
母が末期癌と診断されたのは、平成七年の八月でした。ところが、その僅か四ヶ月後に、私にも胃癌がみつかりました。母と子が病院の廊下で擦れ違うのは、楽しいものではありません。私の胃の全摘手術の日には、手術も出来ない母が励ましてくれました。手術直後には「点滴台を持ちながらの階段は転ばないように気をつけろ」と注意してくれました。
健康と病気、それは対極にあるものと思っていました。病気とは闘うべきものと思っていました。しかし、それは間違いでした。健康に生きると同じように、病気と生きることが大事なのです。大病したお陰で、そう思えるようになりました。私と癌との生活は、この後も続きます。
同様に、生と死、生きる事と死ぬ事、それは対極にあるものと思っていました。しかし、それは間違いでした。生と死は、どんな場合でも、アナログ時計の秒針の一刻みのような近さにあるものでした。母のそばにいて、秒針を指で止める事は出来ませんでした。
作歌は、私にとって自分捜しの場です。
私の人間形成と切り離すことは出来ません。従って、今回も、不器用な生き様と未成熟な人間性を露呈することになりました。本集は、粗末な人生を必死に歩む私の息づかいです。
本集を編むにあたって、発表順ではなく、作歌年月順に並べ替えました。その時々の心境を大事にするために、発表時の一連を保つようにしました。
歌集名は、次の一首から採りました。
思ひ出となりたる孀娥(さうが)の森に唄ふ
蝉の聲明(しやうみやう)に立ち止まりたり
思い出というものは、突然現れるものですね。東京勤務の頃、国立劇場で僧侶の合唱を聴いた事があります。の声を聞いていた折に、その時の感動が突如甦って参りました。
母は、医師の予想に反して、一年半も頑張りました。
昨年が母の十三回忌でした。
今回も短歌新聞社さんには大変お世話になりました。深謝申し上げます。
平成二十二年二月十二日 白梅富妙大姉命日に記す
著者略歴
1941年(昭16)現住所生。64年大野誠夫に師事し、作風社入社。現在:作風社代表、「作風」編集発行人、現代歌人協会会員、日本歌人クラブ南関東ブロック委員、(一社)埼玉県文化団体連合会副会長、埼玉県歌人会会長、埼玉文芸家集団会員、熊谷短歌会会長。賞:作風社「薔薇祭賞」、埼玉県歌人会「新人賞」、「歌人会賞」、埼玉県「埼玉文芸賞」、日本歌人クラブ「南関東ブロック優良歌集賞」。著書:合同歌集『七つの浪曼的情景』。歌集『孀娥の森』『天にほのかな花あかり』『邑城の歌が聞こえる』『日乗』『熱鬧の街』『聲明の森』『金子貞雄歌集』『第一歌集の世界・孀娥の森』『こまひの竹』